用間論(2)


 数日後、伊作はふたたび達魔鬼に会うために、裏山に赴いていた。
 -私は、何をしているのだろう。
 待ち合わせの場所へと足を運びながら、考えるのは同じことばかりである。
 -私は、断るつもりなのか、話を聞くつもりなのか。
 自分でも、何をしたいのかがよく分からなかった。断ろうとも考えていなかったし、ドクタケに身を投じようと決めたわけでもなかった。ただ、迷っていた。
 -なんで迷う必要があるんだ。私は、忍として生きる道を選び、そのために忍術学園で学び、もうすぐ卒業するところまで来ている。
 なぜ忍になろうと思ったのか。ふと伊作は考える。
 -自分の運命を自分で変えようと思ったら、こうするしかなかった。それだけじゃないか。
 そう、自分で自分の運命を決めようと思い定めたから、ではないのか。
 時代は動いている。さまざまなチャンスに満ちている。だが、自分が動かなければ、時代に置いていかれる。そして、そのあとには、父祖とおなじ仕事に就いて、父祖の地で埋もれていく人生しか残されていない。
 -私は、時代を追いかけるほうを選んだ。
 手っ取り早く故郷を飛び出すだけなら、雑兵になるという手もあった。だが、より学問を重ねたいという思いもあった伊作にとって、寺での学問はどうにも実践に欠けるように思えたし、そのほかの学問の場は門閥の壁にぐるりと囲まれていた。幅広く実践的な学問を修めるには、忍術学園は伊作にとって最適の場所だった。
 つまり、伊作にとって、運命を変える手段は学問が先であり、忍になるというのはその結果だった。そのことに不満があるわけでもなかった。それしかないと思っていたし、忍の道に賭けてみようと思い定めていたのだから。
 だが、いま、目の前に、もう一つの選択肢が現れつつある。唐突に示された医者という選択肢に、伊作は思い惑う。
 ざっ、ざっと道を外れて藪を掻き分けていた伊作が、足を止める。そこは、木立の中に開けた、小さな広場のような場所だった。
「来てくれると思ったよ」
 がさがさと藪が鳴ると、達魔鬼が姿を現した。
「…」
 伊作は黙って、相手の顔を見つめる。
「迷って、いるんだね」
 自分の心を見透かされたような気がして、伊作は思わず顔を伏せる。達魔鬼からすれば、この場に伊作が来たこと自体、迷いが生じていることは自明のことだったが。
「善法寺君、君の本草の技術は卓越している。これを生かさない手はないとは思わないかね」
 達魔鬼は静かに、だが熱っぽく説く。当惑したように伊作は頭を掻く。
「しかし、私は忍たまですから…」
「本当に、このまま忍たまを続けるつもりかね」
 達魔鬼が身を乗り出す。
「いや…そのために、忍術学園にいるわけですから…」
「忍がなにをするものかは、分かっているね。それは、君が本当に求めているものなのだろうか」
「何をするかって…」
「つまり、暗殺や謀略を常とするということだ。それは、君が望む未来なのか」
「…」
 -達魔鬼は、わざと刺激的な言葉を使っている…。
 それは分かっていたが、暗殺という言葉は、伊作の胸に刺さったままの小さな棘の痛みを思い起こさせるには充分だった。
「君には、命を救うということの方が向いている。違うかね」
「…」
 もはや、伊作に返す言葉はない。それが、伊作の迷いを抉る言葉だったから。
「私には、それが真に君が求めていることのように思えてならない。君自身も、実は迷っているのではないのかね…医者として、命を救う仕事のほうが向いているのではないかと」
「私は、忍たまです…忍を目指すものとして、学園で学んでいる」
 棒読みのように伊作が抗弁する。
「もちろんそうだ。君は、きっと優秀な忍になれるだろう…忍術学園で六年間も学んだからね」
 不意にこびるようになった達魔鬼の語尾に、伊作は少し鼻白んだ。
 -それは、私に対するイヤミなのか…。
 そう思うことで、少し冷静になれた気がした。自分では、むしろ、六年間も学んでいながら、この程度の実力しかない、という忸怩たる思いがあったから。だが、達魔鬼の次の言葉に、伊作の思考はすっかり捕縛されてしまった。
「…だが、君は若い。まだ、方向転換が可能なのだよ」
 -方向転換、だって…?
 まだ、方向転換できるというのだろうか。医者という…道に。
 -そんなことはない。そもそも、忍になるために忍術学園に入り、学んできたのだ。いまさら方向転換など…。
 だが、ひとたび伊作の中で鎌首をもたげた疑問は、たちまち、制御しきれないほどに増幅し、うねり始めていた。
 -私は、まだ、道があるというのか…医者になることが、できるというのか。
 ぎりぎりと縛られた思考と、暴れ続ける疑問が、伊作から表情を奪っていた。能面のように凍りついた表情に、達魔鬼は、自分の言葉が伊作に有効打を打ち込むことに成功したことを悟る。
「…私は、忍術学園をやめるべきなんでしょうか」
 長い沈黙の後に、ようやく絞り出すことができた言葉だった。
「そうとは限らない。だが、それは君が決めることだ」
 しかし、伊作に学園をやめられては困る。内間に仕立てなければならないのだから。今の段階では、伊作に忍術の道に疑問を植えつけることが先決である。忍術の道に疑問を生じた伊作は、やがて、年端も行かない子どもに忍術という名の詐術や殺人を教える忍術学園そのものに、疑問を覚えるだろう。そのときに生じる意思の揺らぎこそ、内間に取り込むチャンスなのだ。

 


 -冷静になるんだ。相手はドクタケだぞ…。
 夕刻、学園に戻った伊作は、ひとり風呂場にいた。
 -何の目的か知らないが、私を惑わせ、忍の道から外すために、あのようなことを言っているに過ぎない。それなのに…。
 ばしゃっ、と頭から湯をかぶり、ごしごしと髪を洗う。
 -なぜ、あのような見え透いた言葉に、これほど惑う…。
 達魔鬼の言葉が髪にまとわりついてでもいるように、伊作は何度も湯をかぶっては髪をこすり洗う。
 -眼を覚ますんだ。あれは、作戦だ。
 それなのに、いったんうねり始めた疑問は、もはや制御不能となって、伊作の頭の中を巡り続ける。
 -私は、本当に忍になってもいいのだろうか…あのような言葉に揺らいでしまっているようで、本当に忍など務まるのだろうか…。
 実は、医術や本草を学ぶほどに感じていた疑問だった。忍術を学ぶために学園に入った自分は、忍術のひとつとして医術や本草を学んでいる。だが、それら人を救う術は、本質的に忍術とは相容れないものではないのか…師である新野にも、訊くことができない疑問だった。
 いずれきちんと結論を出さなければならないと考えていたことだった。それが、思いがけずドクタケから答えを迫られることになろうとは。
 -私の医術も本草も、あくまで忍術の一部である。そう思ってきたのに…。
 だが、それも、答えを先延ばしするために無理やり自分に納得させるためのロジックにすぎないことは、自分がいちばんよく判っていることだった。
 疲れきった伊作は、惑乱したまま、湯船に身を沈める。
 -冷静に、冷静になって考えるんだ…。
 湯船の縁に腕を乗せて、伊作は考え込む。
 -話の内容からして、達魔鬼が私に忍の道から外させようとしていることは明らかだ。それは、何の目的だ?
 窓の格子から差し込む夕陽が、立ち上る湯気をぼんやりと照らしている。
 -私をドクタケ側に引き込むつもりなことは、間違いない。だが、達魔鬼の口調からは、私が忍術学園をやめるようには求めていない…。
 忍としてもつべき分析的思考が働き始めるのを、伊作は感じる。
 -私をドクタケ側に引き込むとして、私を学園にとどめる必要があるとすれば…そうか、内間か!
 それならば、達魔鬼の話の内容も、辻褄があう。
 -だが、私を内間に仕立てて、何をするつもりなのだろう…。
 忍術学園の情報を入手するつもりなのだろうか。自分のような忍たまが、学園の立ち入った事情について知る由もないことくらい、分かりそうなものと思えた。
 -あるいは、私がタソガレドキ忍軍の雑渡さんと親しいのを知っていて、タソガレドキ忍軍に工作するつもりか…。

 


「なにボーッとしてるんだ、伊作」
 不意に上から留三郎の声が降ってきて、伊作はびくっとした。顔を上げると、前を手拭で押さえた留三郎が立っていた。
「い、いや…別に」
「そうか」
 短く返すと、留三郎は洗い場にどっかと胡坐をかいて身体を洗い始めた。自分に向けられたその背は、幅広くがっしりした肩から、引き締まった腰まで見事な逆三角形をかたどっている。いかにもか細い自分とは対照的なその背に、ふたたび封じ込めかけていた疑問が鎌首をもたげる。
 -身体能力をみても、私が忍に向かないことは、明らかなのではないか…。
「なあ、伊作」
 背中をごしごしと洗いながら、留三郎は言う。
「なんだい」  
「もう、ドクタケの達魔鬼には会うな」
「…」
 低く命じる留三郎に、伊作は何も答えない。
 留三郎がどのように知ったのかは分からない。だが、意外とは思わなかった。留三郎は、自分のことはなんでも知っている。伊作自身が知らないことさえも。だから、ドクタケの達魔鬼と会っていることも、それゆえに忍を目指している意思が揺らいでいることも、とっくに見通されていると思っている。
「達魔鬼が何を言ったかは知らんが、何かたくらみがあってのことに決まっている。だから、もう会わないほうがいい」
「そのことで、話がある」
「なんだ」
 留三郎が振り返ったとき、
「失礼しまーす」
 数人の下級生たちが入ってきた。
「続きは部屋でな」
 湯船から立ち上がりざま呟くと、伊作は風呂場を後にした。


「で、話とはなんだ」
 部屋に戻ってきた留三郎は、一足先に戻って文机に向かっていた伊作に声をかける。
「まあ、座ってくれないか」
「おう」
 書を閉じた伊作が文机をどかして作ったスペースに、胡坐をかく。
 -あいかわらず、よく分からん本を読んでるな。
 ふと眼をやった文机には、本草や鍼術の本が積み上げられている。
「私がドクタケの達魔鬼と会っていたのは事実だ」
 まず事実から、伊作は淡々と語った。
「達魔鬼は、私に、ドクタケ水軍の顧問医にならないかと言ってきた」
「なに…!」
 いきり立った留三郎は、思わず腰を浮かす。
「まさか伊作、その申し出を受けたんじゃないだろうな」
「受けてもいいかもしれない、と私は思っている」
 いつものように、軽く微笑みを浮かべたまま伊作は答える。
「んだと! 伊作、おまえ正気で言ってるのか!」
 伊作の胸座を掴もうと、思わず腕が伸びそうになる。
「まあ、落ち着けよ。留三郎」
 いなす伊作の表情に、揺らぎはない。
「それが達魔鬼の作戦だってことくらい、私にも分かっている。おそらく、達魔鬼は、私を内間に仕立てるつもりだろう」
「学園の…内部通報者ということか」
「そうだ」
 伊作の返事に、留三郎はようやく浮かしかけた腰を落とす。
「そういうことだったのか」
 ほっとした留三郎は、ふと、なぜそこまで自分が気色ばんだのか、疑問を感じる。
 -伊作がそんなに簡単に敵の手に落ちるヤツじゃないことは、この俺がいちばんよく知っている。それに、本気で敵に寝返るつもりなら、俺に言ったりはしないはずなのに…。
 その懸念が、なにか伊作を途轍もなく遠いところへ拉してしまいそうな不安につながっているような気がして、留三郎はそれ以上、考えるのをやめることにした。
「で、ドクタケの手に落ちたふりをして、どうするつもりだ」
「もちろん、少しばかり手痛い目にあわせて見せるさ。何をするかは、ドクタケの内情を見定めてから決めるつもりだけどね」
 伊作は、ふいに真剣な表情になって留三郎を見つめた。
「これから私は、少しばかり怪しい動きをする。その意味を留三郎には知っておいて欲しかったから、こうして話しているんだ」
 -留三郎には、きっと全て、見通されてるから…。

 

 

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