Gray Rhino
金融用語でいうグレイリノ(灰色のサイ)とは、市場に高い確率で存在し、大きな問題を生じるにもかかわらず軽視されがちなリスクをいいます。
手ごわいライバルになりうるという意味ではリスクである後輩たちを可愛がらずにはいられないとはどういうことか、生真面目そうな子に考えてもらいました。
「どこ行きやがった、あのガキども」
「まだ遠くには行ってないはずだ。探し出せ!」
半助の依頼で多田堂禅のもとへ新型砲弾の受け取りに行った兵助と伊助は、街外れにたむろしていた足軽崩れたちに追われていた。
「あいつら…なんでぼくたちが新型砲弾をもってることを知ってるんですかね…」
ようやく街道筋の木立の中に隠れることができた伊助が、膝に手をついて肩で息をする。
「いや、あいつら、これが多田堂禅先生の新型砲弾とは思っていないだろう。なにか貴重品だと思って狙ってきたんじゃないか」
その間にも用心深く周囲の様子をうかがう兵助が低く応える。
「それもこまったもんですね…」
額の汗をぬぐった伊助がぼやく。「よい子たちが砲弾なんてもち歩いてたら、ぜったいあやしまれますよね…」
「だから伊助は木に登れ。俺がアイツらを引き付けるから」
「えっ? どうしてですか…」
唐突な指示に伊助が眼を白黒させる。
「人は通常、自分の視線より下に注意を向けがちだ。俺が見たところ、アイツらは忍者じゃないから、高い方に隠れれば見つかる可能は低い」
手早く説明すると、藪に身をひそめて姿を消す。そして、あらぬ方から追っ手の足元に向けて立て続けに石を投げつけた。
「いてっ!」
「ガキはそっちにいるぞ!」
「くそ! なめたマネしやがって!」
追っ手たちが一斉に石の放たれた方に走り出す。その間に、ひときわ葉が茂った木によじ登る伊助だった。
「せんぱい!」
追っ手を散々翻弄して戻ってきた兵助に、幹を伝っておりてきた伊助が駆け寄る。
「大丈夫だったか」
気がつくと腕を伸ばして頭をなでていた。
「はい!」
くすぐったそうに首をすくめながら伊助が見上げる。「それにしても、せんぱいすごかったです!」
「そうか?」
「そうですよ!」
力強く頷く伊助だった。「あんなにあっちこっちに走り回らせてて、あいつらへばってたじゃないですか」
「まあな。ああやって疲れさせれば、もう俺たちを追う気力もなくなってるだろうしな」
兵助に散々攪乱された追っ手は、これ以上慣れない森の中を走り回ることの不利を悟ってようやく退散していった。
「だけど、そのせいでだいぶ時間を食ってしまったな」
兵助がため息をつきながら視線を上げる。頭上に広がる木々の枝から覗く空はすでに薄暗くなっていて、鳥の声が不気味に響いている。
「しかたがない。どこかで野営するか」
「あ、そういえば、あっちの方に家が見えました」
伊助が指さす方向に眼を向けた兵助が軽く首をかしげる。
「だが、あっちは森の奥の方だぞ」
「はい。でも、たしかに屋根が見えました」
「そうか…まあ、連中の逃げたのと逆方向だし、行ってみるか。もしかしたら泊めてもらえるかもしれないしな」
「…うわあ」
「こう来たか」
森の中に辛うじて続く踏み跡をたどってやってきた二人がため息をつく。ようやくたどり着いた家は、廃屋だったのだ。
「ごめんなさい、せんぱい…」
うなだれた伊助がか細い声で言う。
「まあ、でも屋根はしっかりしているようだから野営よりはマシだ。今日はここに上がらせてもらおう」
気を引き立てるように明るい声で言うと、兵助は「失礼しまーす」と傾いた戸を苦労して開ける。
「うへっ、ひどい埃だ。覆面したほうがいいな」
立ちのぼる埃に顔を覆いながらいったん外に退却する兵助の傍らを、「ではぼくが」と伊助が歩み出て、敷居をまたいで玄関に乗り込む。その手にはいつの間にか手帚が握られていた。
「おい、伊助」
慌てて声をかけたが、次の瞬間、猛然と立ち込める埃に思わず後ずさる。戸口や窓から煙のように埃が吐き出される。
「おまたせしましたっ」
伊助が戸口から姿を現す。と、飯のいい匂いがして鼻をくんくんさせる。
「うわぁ…いいにおいだ…」
「もうすぐ飯が炊ける。裏に沢があるから手と顔を洗ってこい」
庭先で火を焚いていた兵助が振り返って言う。火のまわりには竹串に刺したキノコをあぶっている。
「はーい」
手早く洗って戻ってきた伊助がきょろきょろする。「さっきからごはんのにおいがするのに…どこにあるんですか?」
「なんだ、まだ習ってなかったか?」
ここさ、と言いながら火を消すと、苦無で地面を掘る。そこには竹筒が二本埋まっていた。
「竹筒の中に米と水を入れて、その上で火を焚くと飯を炊くことができる。覚えておくといい」
「はい」
「熱いから気をつけろよ。ほら、味噌もあるぞ」
懐から出した小さな容器から味噌をすくうと竹筒の容器の隅に載せてやる。
「ありがとうございます」
熱そうに飯をさましながら口に運んでいた伊助が「おいしいです!」と弾んだ声を上げる。
「そうか。よかったな」
「それにしても、せんぱいすごいです!」
「俺が?」
キラキラした瞳で見つめられた兵助が眉を上げる。
「だって、こんな何にもないところからごはんとおかずまでできるなんて…やっぱりせんぱいってすごいなあって」
「俺だって豆腐ばっか持ち歩いてるわけじゃないぞ」
竹串に刺したキノコを頬張った兵助が言う。「一応、何があってもいいように外出するときは最低限の米とか味噌はもち歩くようにしてるだけさ。あとはその場にあるものをなんでも使う。それが忍者さ」
「でも、いつのまに?」
「伊助が掃除してるあいだ、ぼさっと突っ立ってるわけにいかないだろ?」
周囲を警戒しながら見回っている間に竹やぶや食べられそうなキノコを見つけられたんだ、と付け加える。
「さて、食い終わったら片付けるぞ」
「はい…ってどこにですか?」
「ここに全部埋める。火を焚いた跡も残らないように気を付けるんだ。ここで過ごした痕跡を残さないことも大事なんだ」
竹筒を埋めていた穴を苦無で拡張しながら兵助は説明する。
「はい」
「おお…すごいな」
家の中に足を踏み入れた兵助が感心したように言う。
「へへ。ぼくも、ちょっとがんばっちゃいました」
照れたように伊助が頭を掻く。土間に面した部屋は、埃も蜘蛛の巣もすっかり払われてこぎれいになっていた。
「床がもろいので気をつけてください…あんなふうになっちゃうので」
伊助が指さした先には、踏み抜いた穴が空いていた。
「下梁の上なら大丈夫だろう…それにしても、伊助はいつも箒をもち歩いてるのか?」
床の上に胡坐をかいた兵助が訊く。
「はい。なんか、もってないとおちつかないっていうか」
「そうか。たいしたもんだ」
「えへへ…あ、でも、ここもあんまりキレイだとぼくたちがいたことが分かっちゃいますかね」
照れ笑いを浮かべた伊助が、ふと気づいたように言う。
「そうかもしれないが、まあ大丈夫だろう。どうせすぐに元通りになるさ」
「ならいいですけど」
「それより今日は疲れただろう。そろそろ寝るか」
言いながらごろりと床に横になる。入口の戸を閉め切った室内はほぼ暗がりだが、窓の格子から、まだうっすらと夕暮れの残照を残した縹色の空がのぞいている。
「はい」
応えて横たわった伊助だったが、身体をもぞもぞ動かして兵助のそばにぴったりとくっつく。
「どうした、伊助」
兵助が訊く。
「いえ、ちょっと」
言いながら、さらに身体を寄せる伊助だった。
「なんだ。お化けでも怖がってるのか? そんなのはいないから安心しろ」
「お化けもこわいんですけど、こういう山のなかってシチュエーションなんで、そばにいたほうが安心するっていうか…」
ダメですか? と上目遣いに訊く。
「いいさ」
-伊助は街の育ちだから、山中で過ごすことには慣れてないんだろう。
そう思うことにした。
-…。
すうすうと健やかな寝息が傍らから聞こえる。安心しきったような寝顔を見せる伊助だった。
-伊助、疲れたんだろうな…。
本来ならとっくに学園に戻って風呂と夕食を済ませて、宿題や予習に取り組むか、あるいは友人たちと他愛のない話で盛り上がっている頃である。少なくとも自分が一年の頃はそうだった、と兵助は考える。
-それなのに、変なチンピラに追い回されて、こんな山のなかの廃屋で夜を過ごすことになっちゃったんだからな。
だから、自分が守ってやらなければと考える。そして伊助の寝顔に目をやる。すっかり寝入っている伊助だが、その指は兵助の服をしっかりと握っている。
-そうだ。俺は伊助の先輩なんだ。だから伊助を守ってやるんだ。先輩が俺を守ってくれたように…。
思えば、まだ技も力も足りない低学年だった頃の兵助も、先輩に守られる存在だった。厳しい人もいたが、多くは優しかった。特に兵助と同じ委員会の先輩は、甘やかしていると言われるほど兵助たち後輩に優しく、可愛がってくれた。
ふいに、自分がまだ一年生だった頃、今日と同じような出来事があったことを思い出した。
それは今日と同じように、同じ委員会の先輩と二人で街に用足しに出た帰り、街はずれで数人の不良に絡まれたときだった。忍たまであることを隠すためにあえて忍器を使わずに体術のみで応じようとした先輩だったが、兵助を守りながらの戦いは明らかに不利だった。先輩は兵助を連れて相手を振り切る方針に切り替え、追う相手を巧みに撒きながら山中に逃げ込むことに成功した。
追っ手からは逃れたが、すでに山中は暗くなっていた。疲れ切っていた兵助を連れて学園に戻るのを断念した先輩は、たまたま見つけた洞穴で夜明けを待つことにした。
「誰に見つかるか分からないから、火は焚かないからな」
言いながら、懐から出した饅頭を分けてくれる先輩だった。
「はい」
受け取った饅頭を小さくかじりながら兵助は応える。
「あんなチンピラに絡まれるなんて、俺たち運が悪いな」
「…すいません。ぼくがいなければ…」
もし足手まといの自分がいなければ、あんなチンピラの数人など簡単に叩きのめせていたはずの先輩だった。自分がいたばかりに…と思わずにはいられなかった。
「俺の大事な後輩だ。当たり前だろ」
肩に腕が回される。
「ぼく、必ず強くなります…先輩みたいに」
「おう。待ってるぜ」
気がつくと、兵助は先輩の身体に全身を寄せていた。布地ごしに逞しい筋骨を感じながら、なぜただ後輩というだけで、守るのが当たり前だと言い切ることができるのだろうかと考えた。
まだ一年生の兵助にとって、上級生というのははるかに遠い存在だった。知識も技能も、もちろん体躯の違いからも。実技や外出先でのトラブルで眼にする体術や忍術には畏怖さえおぼえた。そんな遠い存在が、無条件に自分たちを守ってくれるという状況をすんなり受け入れてしまっていいのか分からなかった。
それから上級生と言われる学年になり、知識も技能もある程度身について、プロ忍者の仲間入りするのに何が足りなくて、何が求められているのかが見えてくるようになった。それは、決して他人に心を許さないということ。
それはあまりに茫漠とした、真空の空間にひとり投げ出されるような、それでいて心をキリキリと締め上げてくるような、そんな風景に兵助には思えた。だが、プロ忍者として生きていくということは、その究極の孤独に耐えることなのだ。
そのことに気づいてから、学園とは、何の打算もなく仲間たちに心を許せる最後のモラトリアムの場になった。だからこそ、いずれ背丈も実力も伯仲する手ごわい敵方になるかもしれないと分かっていても、眼の前のまだ小さな後輩が愛しくて、守らずにいられないのだ。
きっと先輩もそうだったのだろう。だから自分を可愛がってくれたのだ。今だけ許される貴い時間のなかで、なんの打算もなく、ただ本能に近い感覚で、自分を頼る存在を守りたかったのだ。
「それで三郎がまたとぼけたこと言ったら庄左ヱ門に突っ込まれてさ…」
忍たま長屋の自室で、学級委員長委員会でのできごとを楽しそうに語る勘右衛門だった。
「そのツッコミ、庄左ヱ門らしいな」
「だろ? さすが俺の庄左ヱ門だよな」
「なんだよその『俺の庄左ヱ門』って」
「だって俺の可愛い後輩なんだからさ。庄左ヱ門も彦四郎も」
なんの衒いもなく言い切る勘右衛門に、ふと言ってしまっていた。
「だけど、いつかは俺たちのライバルになるかもしれないって思わないのか?」
「とっくに織り込み済みだよ、そんなの」
ふいに勘右衛門の口調が乾く。「敵方にいたら、けっこう手強いだろうな」
「だろうな」
「でもさ」
兵助に眼をやった勘右衛門がニヤリとする。「だてに俺たちだって四年も長く生きてるわけじゃないからさ」
「どういうことさ」
「庄左ヱ門はすっげえ賢いけどさ、思考パターンってのはやっぱあるんだよな。それって、本人がどうにかしようとしても、そう簡単に変わるもんじゃないんだよな」
「それはお前もだろ」
「まじか」
「自分は違うとでも思ってたのかよ」
丸い眼を見開いてみせる勘右衛門に、兵助は肩をすくめる。「お前だってたいがい思考パターン読まれやすいぞ」
「おっし! よく教えてくれた! 俺これから気をつける!」
「…がんばれよ」
急に殊勝なことを言い出した友人をじとっとした眼で見やった兵助が、ふいに視線をさまよわせて小さくため息をつく。
「どうしたんだよ、兵助」
「…なんかさ」
ぽつりと兵助は言う。「俺たちも先輩方に可愛がってもらってたけどさ、それってどうしてなのかなって思ってさ」
-ああ、言っちゃった…。
いつもなら本当に悩んでいることは決して人に漏らさない兵助だった。いくら信じあえる仲間とはいっても、赤裸々な自分をさらけ出すことにはためらいがあった。なのに、今はどうしようもなく聞いてもらいたかった。答えは求めていなかった。ただ、今はそれが許される時であり、仲間だった。そしてそんな機会はもう二度とこないかも知れなかった。
「俺さ、聞いたことあるんだけど」
背後に両手をついて天井を見上げた勘右衛門がのどやかに口を開く。「寺とか学問所って、穏やかで静かに学問に集中できるところなんじゃないかって思ってたんだけど、実は違うらしいな。イジメやら派閥争いやらがけっこうすごくて陰湿らしいな。だけど学園にはそんなのないだろ?」
「まあな」
「俺、それ聞いてなんでなんだろって考えたんだけど、それって生きるか死ぬかってことがない環境だからないじゃないかって思ったんだ」
「…そうか」
そうかも知れないと兵助も考える。学園で学ぶ知識や技術は戦と直結している。在学中に演習中の事故や旗印を取る実習などなどで命を落とすことだってあるのだ。そんな環境で、しかもまだ体力も実力も足りない修業中であれば、仲間たちと助け合うしかない。
-勘右衛門も、同じようなこと考えてたんだ。
.
「だけどさ、俺たちは違うだろ」
勘右衛門は話し続ける。
「そうだな」
兵助は頷く。ここでは仲間内の足の引っ張り合いなど児戯に等しい。いざ実習となれば、仲間が相手でも殺し合うくらいの本気度を試される。だからこそ、仲間たちとの絆が重いのだ。
「だったら、分かるだろ」
「ああ」
-そんなこと、はじめから分かり切ってる話だ。
小さく苦笑する。いつかさらけ出した弱い脇腹を衝かれる日が来るとしても、それがここでともに過ごした仲間や後輩であれば、それでもいいと思った。
そして、生真面目な少年らしく考える。
-その時までに、俺がもっと強くなってればいいんだ。
<FIN>
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