とりかえばや(3)

「じゃ、今日の学級委員長委員会はこれで終了!」
 五年ろ組の鉢屋三郎が声を上げる。
「みんな、お疲れ」
 後輩たちに笑顔を向けるのは、五年い組の尾浜勘右衛門である。
 いまのところ4人しかメンバーのいない学級委員長委員会は、今日もさしたる議事も決定事項もなくあっさりと終了した。
「じゃ」
「またな」
 五年生たちが委員会室を後にする。庄左ヱ門と一年い組の今福彦四郎が、ちょっとした片付けに残っていた。
「で、そっちはどうだい」
 含み笑いをしながら彦四郎が声をかける。
「どうって?」
「決まってるじゃないか…安藤先生の授業はどうかってこと」
 できの悪いは組に、安藤先生の高度な授業はついていけないだろ、と言いたいことは明らかだったが、庄左ヱ門は軽く肩をすくめてあっさりと言い捨てた。
「別に…安藤先生もとても分かりやすい授業をしてくれるから、みんなすごくやる気を出してるよ」
「へ?」
 意外な返事に、彦四郎はおもわず頓狂な声を上げる。
「さすが安藤先生だよね。は組のレベルに合わせて授業してくれるから、みんな分かりやすいし楽しいって言ってるんだ」
 唖然とする彦四郎を意に介することもなく、庄左ヱ門は、淡々と続ける。
 -どういうことだ? あのは組が、安藤先生の授業が分かりやすいとか楽しいとか言うなんて…?
「どうかした? 彦四郎?」
 くりんとした目が不意に自分に向けられたが、彦四郎は返事もできない。その様子をちらと認めて、庄左ヱ門は、気づかれないように軽く笑みを浮かべる。
 -よし。思ったとおりの反応だ。

 


「なんだって? は組の連中が、安藤先生の授業を分かりやすい、楽しいって言ってるだって?」
 放課後のい組の教室で、信じられない、といった表情で肩をすくめるのは任暁佐吉である。
「いや、学級委員長委員会だけじゃない」
 眉間にしわを寄せながら腕組みをするのは、黒門伝七である。
「作法委員会でも、何かあったのか?」
 佐吉が訊く。
「ああ。今日の委員会で兵太夫が言ってた。安藤先生がとても分かりやすく教えてくれるから、すごくやる気が出るって」
「ちょっと待て…それって、ほんとにあの一年は組の話なのか?」
「ぼくらが聞いたことが信じられないってこと?」
 伝七の声が尖る。
「そうじゃないけど…あの安藤先生が、は組のレベルに合わせた授業をやるなんてことがあるのかと思ったから…」
「だけど、どうやら事実みたいなんだ」
「どう思う? 一平」
 佐吉が一平のほうを振り返る。
「実は、生物委員会でもそうなんだ…」
「ホントかよ?」
「そうなんだ…三治郎も虎若も、安藤先生の授業があんなに分かりやすいとは思わなかった、もっと早くからこうだったら良かったのに、なんて言ってるんだ」
「…信じられない」
 佐吉がうめき声を漏らす。
「でも、ここまでは組の連中が同じことを言ってるってことは…」
 不安がよぎるように、彦四郎が言う。
「なんだよ、彦四郎」
「もしかしたら、は組の連中は、このままずっと、安藤先生が担任でいてほしいなんて言い始めるんじゃないかなって…」
「まさか!」
 すかさず否定して見せた佐吉だったが、思いがけず強くなった口調に自分の不安が現れているようで、その事実にさらに思考がかき乱されるようで、そのまま口ごもる。
「会計委員会はどうなのさ」
 気がつくと、一平たちの視線が自分に集まっていて、佐吉ははっとする。
「い、いや…会計は今日が開催日だから…終わったら報告するよ」
「わかった」
「じゃ、よろしく」
 口々に言って教室を後にする同級生たちに取り残されるように、佐吉はひとり、教室に残っている。
 -とにかくだ! このまま安藤先生がは組の担任になってしまうなんてことがあってたまるか!

 

 

「どうだった?」
 きり丸が訊く。
「うん。なんか思った以上にいい反応だったよ」
「こっちも。彦四郎があんなに動揺するとは思わなかったよ」
「伝七なんか、頭抱えちゃってなんども『信じらんない』って言ってた」
 生物委員会、学級委員長委員会、作法委員会の結果が報告されると、は組の皆がしてやったりとほくそ笑んだ。
「さすがきり丸だね。これならうまくいきそう」
 乱太郎がうれしそうに言う。
 い組に、半助の授業を悪く言わせる代わりに、は組が安藤の授業を褒めることでい組の動揺を誘おうと思いついたのはきり丸だった。各委員会を通じた工作は、思ったよりも効果を上げているようだった。
「あとは会計委員会だな」
「任せてくれっていうの!」
 団蔵が力強く胸をたたく。
「だけど、気をつけて」
 庄左ヱ門があごに手をやりながら言う。
「どういうこと? 庄左ヱ門」
「佐吉は、もしかしたら伝七たちの話から、ぼくたちの工作を見破ってしまうかもしれない。そのためにも、いかにももっともらしく安藤先生が分かりやすく授業をしていることを言わないとまずいと思うんだ」
「げ…どういうこと?」
 初めて、団蔵の顔に不安げな表情がにじんだ。もともと腹芸などできるような家系ではない。
「たぶん、佐吉は、具体的にどんな授業をしてるんだって聞いてくると思う。だから…」
 あとはごそごそと、庄左ヱ門は、団蔵に耳打ちする。

 


「よろしいですかな、山田先生」
 伝蔵の部屋を訪れたのは、い組実技担当の厚着だった。
「これは厚着先生…どうぞどうぞ」
 敷物をすすめながら、伝蔵が言う。
 どうも、と座る厚着に茶を淹れながら、伝蔵はすでに相手の用件の察しがついていた。
 -いつまで安藤先生をは組の担任にするつもりなのかということなのだろう。
「山田先生」
 苦々しげに言うと、厚着は湯飲みを手に取った。
「どうしましたかな」
「その後いかがですか…は組は」
「安藤先生が担任になって、ですか」
 伝蔵も湯飲みを手にすると、ずず、と茶をすすった。
「はい」
「まだ、二、三日の話ですよ…それほど劇的な効果が出る話とも思えませんが」
 まずはとぼけたように言う伝蔵である。果たして厚着の苛立ちがやや増したようである。
「それはそうですが…しかしですな」
「しかし?」
「学園長先生の思いつきは、たいていは多少迷惑ではあれ、問題になるようなものではない。だが、今回の思いつきは問題があると思うのです」
「どう、問題だと思われるのですか?」
「山田先生はなんとも思われないのですか? 私には大いに問題ありと思われますが」
「ほう?」
「山田先生もお気づきでしょうが、い組とは組ではずいぶん違う。成績だけではない。クラスの雰囲気という面でも」
 厚着は言葉を切ると、お茶をすすった。
「そして、クラスというものは担任の影響も大きく受けるものだ…は組が山田先生と土井先生になじんだように、い組も安藤先生と私になじんでいる。それなのに、突然担任を変えるというのは、生徒たちに無用の混乱を引き起こす以外のなんの効用もあるようには、私には思えないのです」
 一気に言い切ると、厚着は、手にしたままの湯飲みを口に運んだ。
「なるほど、そうお考えですか」
 厚着が自分と同じような懸念を抱いていたことにひとまず安心しながら、伝蔵は言う。
「ところで、安藤先生は、どうお考えなんでしょうな」
「私も直接うかがったわけではないが…」
 厚着は腕を組んで眉を寄せる。
「だいぶストレスがたまっておられることは事実です。職員室でも、よく、どんな教材をつかえば理解させられるのかと頭を抱えていますから」
 そして、なにやら口の中でぶつぶつ呟いたり、深いため息をついたりといった、いつもの安藤らしくない姿にも、厚着は違和感と懸念を抱くのだった。
 -このままでは、安藤先生はお身体をこわされてしまうのでは?
「だが、そうご心配されることもないでしょう」
 泰然とした伝蔵の声に、厚着が訝しげに顔を上げる。
「どういう、ことですか」
「は組はすでになにやら動き始めているようです。ここは、われわれ教師はどっしり構えて見守ることにしましょう…なに、悪いようにはなりますまい」
 安心させるように、厚着の肩に手を置くと、伝蔵はにっこりと頷いた。

 

 

「なあ、団蔵」
「なんだい」
 会計委員会で顔を合わせた佐吉は、団蔵に声をかけた。
 予算も決算もない時期の会計委員会は、10キロ算盤や会計帳簿を前に息も詰まるような緊張感を強いられるような場面もない。要は特段やることもないので、委員会活動との関連は不明(と団蔵や佐吉には思えた)だが、ひたすら鍛錬にいそしむのがこの時期の会計委員会だった。そして今日は、匍匐前進の訓練である。
 深い草むらの中を進むので、うっかりするとすぐ前にいる三年生の左門の忍び足袋を見失ってしまいそうで、佐吉も団蔵も、言葉を交わしながらも視線は前を注意深く見据えている。
「安藤先生の授業はどうだ? 高度すぎてついていけないだろう?」
 あえて断定的に言って、佐吉は団蔵の反応をうかがう。
「べつに…とってもわかりやすく教えてくれるから、ぼくでもわかるよ」
 用意していた答えを口にしながら、団蔵も、佐吉の反応を探る。果たして、佐吉は口の端を軽くゆがめて笑うと、口を開いた。
「それってホントかな…? 安藤先生がは組のレベルに合わせた授業をするなんて、ぼくには考えられない」
「そんなことないさ」
「じゃ、どんな授業してるのか言ってみろよ…たとえば算数とか」
 -庄左ヱ門の言ったとおりだ。
 庄左ヱ門からは、佐吉には気をつけるように言い含められていた。だが、あまりに言われたとおりの展開に、団蔵は却って驚きを隠しきれない。
 -なんで、庄左ヱ門には、佐吉が何を言うかなんてことまで分かるんだろう…。
 だが、感心してばかりもいられない。庄左ヱ門のシナリオどおりに佐吉が訊いている以上、これもまたあらかじめ用意していた答えを言うだけである。
「そりゃもちろん、おはじきとか、積木とか…は組には、手で数えたり、目で見て分かるようなものがないと、なかなかわからないってことをよく考えておられるみたいだよ」
「おはじきに…積木?」
「そう。おはじきは足し算や引き算のときにつかうし、積木は図形のときにつかうんだ」
「…考えられない…!」
 佐吉の動きが止まる。匍匐前進していることも忘れて、思わず頭を抱えてしまったようである。
 -やったね! 
 これで首尾よく行ったとは組の仲間たちに報告できる、と団蔵がほくそ笑んだとき、
「何をしている!」
 頭上から雷のような怒鳴り声が響いて、佐吉も団蔵も思わず凍りつく。こわごわと見上げるまでもなく、その声の主が誰であるかは明らかだった。

 


 その後、会計委員全員で匍匐前進でグラウンド3周をこなして、佐吉は息も絶え絶えに部屋に戻った。
「で、どうだった?」
「団蔵は、なんて言ってた?」
 まだ息が上がったままの佐吉を、い組の仲間たちが容赦なく質問攻めにする。
「ちょ…ちょっと待って…」
 肩で息をしている佐吉に、誰かが水を汲んだ湯飲みを渡す。ひったくるように取って一気に飲み干して、大きく息をつくと、ようやく呼吸が落ち着いてきた。
「…とにかく」
 もう一段、深く息をつくと、佐吉は続ける。
「団蔵も、安藤先生の授業が分かりやすいといっている。団蔵によると、安藤先生は算数の授業で、おはじきや積木まで使っているらしい」
「へ?」
「は?」
「つまり、見て触って、分かりやすくしているってことなんだろう…ぼくたちには想像もつかないけど」
「てことはさあ…」
 一平が不安げな声を上げる。
「安藤先生、このままずっとは組の担任を続けるってこと?」
「そんなのいやだよ」
「ぼくだって!」
 口々に騒ぎ始めるクラスメートたちを見て、伝七が大きく頷く。
「よし! それなら、もうやることは一つ!」
「そうだ! 学園長先生に、安藤先生がい組の担任に戻るよう、お願いに行くんだ!」
 佐吉が続ける。
「「おう!」」

 

 

「ふむ…そうじゃな」
 一年い組らしくもない、学園長室に押しかけての集団直訴に、大川も当惑した声を漏らす。
「ぼくたちい組には、安藤先生が必要なんです! お願いですから、安藤先生をい組の担任に戻してください!」
 佐吉が声を張り上げると、残りの生徒たちも一斉に口を開いて、学園長室は収拾のつかない騒ぎになった。
「やめなさい! なんですか君たちはそんなに一斉にしゃべって! 言いたいことがあるなら、順番にしなさい!」
 襖が開いて、飛び込んできたのは、安藤である。
「安藤先生!」
 生徒たちが声を上げる。
「学園長先生」  
 安藤が、大川に向き直る。
「私からも、お願いします。私をい組の担任に戻してください。私には、は組は手に余ります…やはり、は組は山田先生と土井先生にお任せしたほうが…」
「そうは言うが、山田先生と土井先生の意見も聞かねばな…」
 大川が腕を組んで首をかしげたとき、
「私たちは、異存はありませんよ」
 入ってきたのは伝蔵と半助である。
「そうか。山田先生も土井先生も異存がないなら、これ以上担任を換える必要はないということじゃな…よし! それでは、安藤先生と土井先生の担任換えはこれで終わりとする!」

 

 

「おっしゃぁ!」
「やったやった~!」
 は組の教室から歓声があがる。
「これで、もうイヤミをいわれなくてすむね!」
「あのさっむ~いオヤジギャグともおさらばだ!」
 喜び合う乱太郎たちに、厳しい顔の庄左ヱ門が声を上げる。
「ねえみんな。ちょっと聞いてほしいんだ」
「なに、庄左ヱ門」
「なんかマジメな顔して…」
 怪訝そうに、皆が庄左ヱ門を見つめる。
「今回、こんなことになったのは、ぼくたちの成績が悪すぎるからだってことは、みんな分かってるだろ」
「そりゃまあ…」
「だから、これを機会に、ぼくたちももっとまじめに勉強しないといけないと思うんだ。でないと、また安藤先生に代わってもらおうなんて学園長先生が思いつくかもしれない」
「げげ」
「冗談じゃないぜ」
「もちろん、いきなりい組みたいにやるのはムリだとしても、今までよりまじめに授業を受けないといけないと思うんだ。まずは、授業中に寝たり、ナメクジやバイトを持ち込まないこと。いいね」
「う…うん」
「はにょ~」
「げ、俺もかよ」
 しんべヱ、喜三太、きり丸がしぶしぶ頷く。
「みんなも! いいね」
 ぐるりと見回す庄左ヱ門に、皆苦笑いを浮かべる。
「う、うん」
「わ、わかったよ…」
「それは分かったからさ、庄左ヱ門」
 乱太郎が声をかける。
「なに?」
「せっかく土井先生がもどってくるんだから、みんなで歓迎したいと思わない?」
 悪戯っぽく目配せを送る。
「そ、そりゃそうだけど…」
 なにやら思いついたらしい乱太郎が、口ごもる庄左ヱ門にささやきかける。
「土井先生がくるよ!」
 教室に飛び込んできた伊助が叫んだ。

 


 -ようやく、ようやくは組の授業ができる…!
 ほんの数日のことだったが、ひどく久しぶりのような気がする。年甲斐もない高揚感だ、と苦笑するもう一人の自分を感じながらも、半助は気持ちの高ぶりを抑えきれずにいた。
 -ここだ。
 いつもの教室の前で足を止める。気持ちを落ち着かせるために、小さく息を吐く。
 -いつもと、同じように。
 自分に言い聞かせると、半助はがらりと戸を開いた。
「よし! 授業をやるぞ!」
 教室のざわめきが止んで、着席した生徒たちの視線がいっせいに集まる。
「はい」
 庄左ヱ門が手を上げる。
「なんだ。庄左ヱ門」
 首をかしげる半助にちいさく笑いかけると、庄左ヱ門はせぇの、と声をかける。は組の全員が唱和する。
「「土井先生! おかえりなさい!」」

 

<FIN>

 

 

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