1525(2)


「ここから先は気をつけろ。オシロイシメジの勢力範囲内だからな」
 半助がささやく。
「はい。気をつけます」
 緊張した声で伊作が応える。2人はカキシメジとオシロイシメジの境界にいた。
「それにしても」
 高木の枝に座った伊作がオシロイシメジの軍勢の動きを遠眼鏡で探る。「クーデターを起こした奉行たちと内通している割には動きがないですね」
「そうだな」
 伊作から受け取った遠眼鏡を覗きながら半助が言う。と、遠眼鏡から離した顔を伊作に向けてにっこりしながら訊く。「さて、伊作はこれをどう見る?」
「え…どう見ると言われましても」
 唐突に訊かれてうろたえた伊作だったが、すぐに考え込みながら応える。「二つ考えられると思います。一つは、クーデターを起こした奉行たちに呼応して動く軍勢が別にいて、おそらくすでに動き出していること。もう一つは、そもそもオシロイシメジは今回のクーデターとは関係していないこと、といったところでしょうか…」
「上出来だ」
 大きく頷いた半助だったが、ふいに真剣な顔になって続ける。「だが、それを見極めるにはちょっとした作戦が要るな」
「陽動作戦、ということですか?」
「そうだ。伊作が情報収集した薬屋では、オシロイシメジのほかにサンコタケとクサウラベニタケからの流通も止まっているということだったな。ということは、カキシメジと戦をしようとしているのはオシロイシメジではない可能性もあるということだ」
 朗らかに解説した半助は、「だからこういう噂をオシロイシメジ軍に広める必要がある」と声をひそめるとなにやら伊作の耳元に話しかける。



「ずいぶんカキシメジの方が騒がしいな」
 オシロイシメジの国境警備の隊長が眉をひそめる。
「は。なにやら不穏な噂が広がっているようです」
 控えた部下が報告する。
「不穏な噂?」
「は。カキシメジの城下でクーデターが起こったとの由」
「クーデターだと?」
 初めて聞いた話に隊長が思わず立ち上がる。「それは事実なのか」
「あくまで噂です。まだ正確な情報は入っていません」
 報告した部下はあくまで慎重だが、居並ぶ参謀たちの反応はまた異なるものだった。
「これはチャンスかも知れませぬぞ」
「クーデターとあれば、この機に乗じて城下を押さえることもあながち…」
「いや。待て待て」
 このままカキシメジ領になだれ込みそうな勢いに隊長は慌てて首を振る。「その噂が事実かどうかを確かめねばならぬ。そもそも国境警備の我々にオシロイシメジ領まで攻め込む許可は下りていない」
「であれば、すぐに敵情偵察を放たねば」
「隊長殿、ご裁可を!」
 参謀たちに詰め寄られた隊長が当惑げに頷く。
「う、うむ。ただちにカキシメジ城下でのクーデターが事実か確かめるのだ」
「「は!」」



「どうやらオシロイシメジは今回のクーデターとの関わりはないようだな」
 にわかに一部が動き始めたオシロイシメジ軍の様子を観察しながら半助は呟く。
「そのようですね」
 伊作も頷く。「今から偵察部隊を放つということは」
「だが、クーデターに乗じてオシロイシメジに攻め込まれても困る。仙蔵たちの脱出が難しくなるし、それ以上にオシロイシメジ領の領民たちが迷惑をこうむる」
 冷静に情勢分析をする半助の表情に懊悩の色を見た伊作だったが、その理由を正確には測りかねた。
 -たしかに仙蔵たちの身の危険が増すことは分かるけど、なんで土井先生は領民のことを持ち出したりなさるのだろう…?
 だが、伊作の疑問が更に膨らむ前に半助は新たな指示を発するのだった。
「だから、陽動作戦第二弾だ」
 声をひそめた半助が続ける。「クーデターはサンコタケと通じた一部の家臣が起こしたものだという噂を撒くんだ」



 ≪ということは、クーデターを起こした連中が今の段階で城内に攻め込んだというのは想定外の事態ということだな。≫
 ≪ああ。それが小平太の見立てだ。土井先生も同じ考えだろう。≫
 カキシメジ城に潜った六年生たちの評議は続いている。いま、顎に手を当てて矢羽音を飛ばす仙蔵に留三郎が応えている。
 ≪とすると、城兵の反撃で一度は退く可能性が高いな。≫
 ≪まあ、それが順当な考えだろうな。≫
 ためらいがちに肯定する仙蔵に、留三郎が眉を上げる。
 ≪どうかしたか、仙蔵。≫
 ≪いや、今が脱出のチャンスだということは分かっている。だが…。≫
 ≪小平太と長次をどうするか、ってことだろ。≫
 黙っていた文次郎がぶすっと言う。
 ≪そんなにぐずぐず考えるくらいなら、とっとと探しに行った方が早いだろ。仙蔵らしくもねえ。≫
 意外な台詞に留三郎がもの問いたげな視線を向ける。こういう場合、任務を完遂するためにはまず身の安全を図るのが最優先である。その意味では城から脱出を図ることが正しい答えであるはずである。文次郎なら当然そちらを選択するだろうと思っていた。
 ≪…そうだな。たしかに文次郎の言うとおりだ。≫
 仙蔵も反論しない。 
 ≪わかった。俺たち仲間だもんな。≫
 文次郎が本音では何を考えているかなどどうでもいい。ただこの場で意見が一致すれば、あとは行動あるのみと力強く頷いた留三郎が続ける。
 ≪手分けして小平太たちを探すぞ。仙蔵、俺たちの担当を指示してくれ。≫
 ≪あ、ああ。では留三郎は二の郭を、文次郎は私と本丸を…≫
 留三郎に促された仙蔵が、慌てて指示を飛ばす。



「オシロイシメジが動き出しましたね」
 俄かに慌ただしくなったオシロイシメジの国境警備隊の動きを遠眼鏡で観察していた伊作が呟く。
「ああ。ということは、何が言えると思う?」
 にっこりとした半助が問う。
「えっとつまり…オシロイシメジにとって、今回のカキシメジの動きは予測されたものではなかった。だから慌ててサンコタケに向けて軍を動かし始めている…ですが」
 気がかりそうに伊作が言葉を切る。
「どうした?」
「カキシメジ城に潜っている留三郎たちが、脱出の機会を逸してしまうのではないでしょうか」
「いや、それはないだろう」
 言い切る半助を伊作が見上げる。
「そうでしょうか」
「ああ。ここからサンコタケ領まで軍を動かすには、早くて半日はかかる。まあ、オシロイシメジもサンコタケの軍勢がこれ以上カキシメジ領に入りこまないよう流入元を叩くのが目的だろうからそれほど大きい軍勢は動かさないだろうけどね」
「しかし、サンコタケが本当にカキシメジのクーデターを起こした奉行たちと内通していたならそれでもいいのでしょうが、もし別の勢力だったら、今頃カキシメジの城下に流れ込んでいるかも知れません」
 真剣な表情で伊作が言いつのる。「そうなっては、城が持たないかもしれないではないですか」
「別の勢力、と言ったな、伊作」
 半助は微笑を浮かべたままである。「その候補は?」
「クサウラベニタケ…だと思います。僕が聞いてきた情報が使えるとすれば」
「その通りだ」
 頷いた半助が続ける。「クサウラベニタケはいまホテイタケと戦をしている最中だ。あの城の体力では、カキシメジと同時に事を構えることはできないだろう。だが、クーデターに手を貸す程度ならやりかねない」
「だとすれば…」
 なおさら危ないではないですか、と言いかけた伊作が言葉を呑み込んだ。半助の掌が自分の頭に置かれたから。
 -どういう…ことですか…?
 思わず上目遣いに見上げた伊作に、半助は言う。
「留三郎たちが心配なのは分かる。居ても立っても居られないのだろう。だが、そういう時の判断は冷静さや合理性を欠くことが多い」
 静かに語りかけながら半助は伊作と眼を合わせる。「それに、そう心配することもない。留三郎たちはもう六年生だ。プロ忍の一歩手前まで行っているような優秀な連中だってことは、同じ六年生の伊作ならよく分かっているだろう?」
「はい…先生の仰る通りです」
 気が急いていたことを見通されたことに悄然とした伊作が俯く。
「だが、もうここでの用は済んだ。カキシメジに戻るぞ」
 言いながら半助が立ちあがる。
 -え? もう、いいのですか?
 半助の分析のスピードについていけない伊作が、慌てて立ち上がる。
「は、はい」



 ≪あれは…!≫
 カキシメジ城下に急いでいた伊作と半助だったが、街道を行く軍勢に素早く身を隠す。
 ≪クサウラベニタケ軍ですね。≫
 ≪ああ。つまり、クーデターを起こした奉行たちと内通していたのはクサウラベニタケだったということだな。≫
 軍勢の勢力を確認しながら矢羽音を交わす。
 ≪ですが、いま城下に向かっているということは…。≫
 ≪そうだ。彼らもクーデターがこれだけ早く始まるとは思っていなかったということだ。何らかの連絡の行き違いがあったのだろうな…よし、城下に急ぐぞ!≫
 ≪はい!≫

 


 ≪やあ、みんな無事だったかい?≫
 ≪伊作!≫
 城内の集合場所に現れた伊作に、留三郎たちが眼を見開く。
 ≪お前、どこ行ってたんだよ。≫
 ≪ていうか、土井先生はどうした。≫
 ≪ちょっと待って待って…。≫
 矢継ぎ早に放たれる矢羽音に伊作が慌てて答える。
 ≪クーデターを起こした奉行たちと通じていたのはクサウラベニタケ城だ。オシロイシメジ城ではない。これは僕と先生で確認してきたから確かだ。クサウラベニタケの軍勢はもうすぐ城下に到着してクーデター勢と合流するだろう。その前に城から脱出するんだ。≫
 ≪だが、長次と小平太がいない。≫
 苦虫をかみつぶしたような表情で文次郎がうめく。
 ≪どういうことだい?≫
 ≪我々にもよく分からん。長次は武器庫の様子を探りに行ったまま行方不明で、小平太は長次を探すと言ったきりだ。さっき私たちが城内を一通り探してみたが見つからなかった。いまどこにいるかも…。≫
 仙蔵が続ける。
 ≪だけど、このままではクサウラベニタケ軍と合流したクーデター勢が一気に城を制圧にかかる。ここも危険だ。早く脱出しないと…!≫
 ≪だから長次たちを見殺しにするってのかよ!≫
 焦りをにじませた伊作に文次郎が食って掛かる。
 ≪まあ待て。≫
 仙蔵が割って入る。≪伊作の言うことも一理ある。ここは冷静に考えてみるべきではないか。≫
 -すごい。土井先生と同じことを言ってる…。
 落ち着き払った仙蔵の態度に半助と同じものを見た伊作が嘆息する。
 


「長次、小平太…! お前たち、城に潜っていたんじゃないのか?」
 何食わぬ顔で城近くの神社に現れた2人に、半助が声を上げる。
「ま、そういうことなんですが、長次が大事な情報を土井先生に早くお知らせしたいって…な!」
 ばん、と背中を叩かれた長次がもそりと続ける。
(クーデターを起こした奉行たちは、クサウラベニタケと内通しています。彼らはカキシメジ城を制圧した後、ホテイタケとの戦に加勢すると密約しています。)
「ふむ…その情報をどうやって手に入れた?」 
 半助が訊く。
(武器庫を偵察に行ったとき、武器庫から武器を運び出そうとしていた兵たちがいたので尾行したところ、彼らの所属している小隊で幹部たちがそのような話をしていました。)
「つまり、クーデター勢の背後にいるのはオシロイシメジではないということです!」
「分かった分かった」
 勢い込む小平太を制した半助が言う。「で、城中に潜った他の連中はどうした?」
「え? まだ出てきてないんですか?」
 弾かれたような表情になる小平太だった。
(だから集合場所を確認すべきだと言っただろう。)
 長次がもそりと指摘する。
「なははは…もうとっくに出てきてると思っていた!」
 なんの衒いもなく言い切る小平太にがっくりと肩を落とす半助と長次だった。



 ずしん、と重い響きが轟く。驚いた鳥たちが一斉に羽ばたく。
「いよいよお出ましだな」
 大手の前に据え付けた臼砲を睨みながら小平太が呟く。
「クサウラベニタケの装備は案外しっかりしているようだな」
 遠眼鏡で様子をうかがっていた半助が呟く。「さて、こういう場合、どうする?」
「はへ?」
(どうする、と言いますと?)
 唐突な問いに小平太が眼を丸くし、長次がもそもそと問いかける。
「城内にいる仙蔵たちをうまく脱出させるにはどうすればいいかということだ」
 にっこりしながら半助が説明する。
「ここはイケイケドンドンで大手を突破して…」
(それは危険すぎるぞ、小平太)
 もそりと諌めた長次が半助に向き直る。
(どのようにすればよいのでしょうか。)
「ふむ」
 小さく頷いた半助が続ける。「これはあくまで私ならこうする、というやり方だ。答えは一つではない。お前たちならどうするか、考えながら見ていてくれ」
 そう言うと半助は城に背を向けて走り出す。意外な動きに一瞬顔を見合わせた小平太たちが慌てて後を追う。



 ≪いよいよ城も終わりか…。≫
 臼砲を撃ち込まれた城はそこここが破壊され始めていた。城内での乱闘はまだ続いていたが、臼砲に勢いづいたか攻城側の勢いが増したようである。
 ≪へんな噂を聞いたぞ。≫
 攻城側の兵に紛れて情報収集に出ていた留三郎が戻ってきた。≪このクーデター騒ぎに乗じてオシロイシメジが攻め込んでくるらしいとな。≫
 ≪それはありえないよ!≫
 伊作が反応する。≪僕は、土井先生と一緒にオシロイシメジの軍勢を偵察してきたんだ。そんな動きはまったくなかった。≫
 ≪カキシメジ側が苦し紛れに広めた噂だろ。≫
 腕を組んだ文次郎がぶすっと言う。
 ≪それにしては動きが変なんだよな。≫
 留三郎が首をひねる。
 ≪どういうことだ。≫
 ≪俺も確認できたわけじゃないが、どうやら城下で町人たちがその噂に動かされて避難を始めているらしい。こんな状態でカキシメジ側が城下に噂を広める余力があるとは思えんのだが。≫
 ≪どう思う、仙蔵≫
 腕を組んで考え込む仙蔵に、伊作がおずおずと訊く。
 ≪…土井先生ではないかな、これは。≫
 しばし黙り込んで考えていた仙蔵が口を開く。
 ≪土井先生? …そうか!≫
 伊作がぽんと掌を打つ。≪もともとカキシメジがオシロイシメジと戦をするという噂はあったから、いかにももっともらしく聞こえるし、実際にはオシロイシメジは動いていないから本当に戦になる心配もない、ということだね。≫
 ≪てことは、俺たちもそこに活路を見出す、ということだな。≫
 文次郎が組んでいた腕をゆるゆると解くと、立ちあがる。
 ≪よし。俺たちも脱出するぞ!≫
 ≪そうだな。≫
 仙蔵たちも立ちあがる。
 -土井先生にはかなわないな。
 と思いながら。



「お前たち…よく戻ってきた…!」
 雑踏の中に城から脱出してきた仙蔵たちの姿を認めた半助が声を詰まらせる。
「はい! 先生のおかげです!」
「そんなことより…今は早く城下から離脱した方が」
 すでに動揺は攻城側の奉行勢やクサウラベニタケ勢にも広がっていた。オシロイシメジとの本格的な戦闘が始まる前にそっと戦場から離脱しようとする足軽たちに紛れて、仙蔵たちも脱出してきたのだ。
 城下の通りという通りは、荷車や馬の背に荷物を満載して城下から避難しようとする町人たちと、町人たちに紛れて戦場から離脱したり、空き家になった家から何やら盗み出そうと動き回る足軽たちでごった返していた。人々の口から次々と不穏な噂が巻き起こり、不安な空気を増幅させる。
(街道沿いの村ももぬけの殻です。)
 一足先に街道の状況を偵察してきた長次がもそりと報告する。
「オシロイシメジとの戦の噂があったころから逃げ出す準備はしていたのだろうな」
 報告に頷いた半助が皆を見渡しながら声をかける。
「皆で歩いていては目立つから、ここから個別行動とする。集合場所は私の家だ」
 半助の指示に皆が眼を丸くする。
「土井先生の…お宅ですか?」
「ああそうだ」
 あっさりと頷きながら半助は続ける。「ここから学園までは遠いからな。少し私の家で休んでからにした方がいい。それから」
 厳しい表情になって声を低める。「人々の状況を各自よく観察するように。戦が人々に何をもたらすか、それが何を意味するか、よく考えるんだ。では解散!」



「今回は、私がついていながらお前たちを危険な目に遭わせてしまった。すまない」
 全員が半助の家の囲炉裏の周りに落ち着くと、半助は深々と頭を垂れた。
「先生、やめてください」
「そうです。忍たるもの、想定外の事態にどう対処するかで決まるのですから」
(それに、先生は私たちを助けてくださいました…。)
 慌てて伊作たちが声を上げる。
「ですから、先生もお手を上げてください」
 仙蔵に促されてようやく半助が顔を上げた。
「…それより、今回の私たちの行動について、先生の評価を教えていただきたいのですが」
 少しためらった後に文次郎が口を開く。
「そうだな」
 いつもの朗らかな表情に戻った半助が考えるように一瞬言葉を切った。「今回のお前たちの動きはたいへん良かったと思う。特に、想定外の事態にもかかわらず、当初の任務、すなわちカキシメジの戦の準備について探るという目的を見失うことなく情報を取ってきたことは評価に値する。その内容がおおむね正しかったことも含めて、学園長先生と他の先生方には報告しておくつもりだ」
「そうですか」
 文次郎たちがほっとした表情になる。だが、仙蔵だけがじっと半助の顔を見つめていた。
「どうした、仙蔵」
 視線に気づいた半助が声をかける。
「いまのお言葉だけが評価の全てではありませんね」
 落ち着き払った口調で仙蔵が指摘する。
「えっ?」
「どういうことだよ、仙蔵」
 声を上げた留三郎たちが、仙蔵と半助を交互に見る。
「…気がついたか」
 苦笑した半助が、顔を上げて仙蔵と視線を合わせる。
「今回のような非常事態の場合、何よりも求められるのは冷静な状況判断だ。そのためには、眼の前に突き付けられた状況から完全にフリーハンドにならなければならない。分かるな」
「…はい」
 思い当たる節があるらしい伊作が悄然となる。
「どうかしたのか」
 留三郎が気がかりそうにその顔を覗き込む。
「…実のところ、僕は仙蔵たちが城内に潜っている最中にあのクーデター騒ぎが起きて、まともな判断力を失ってしまったんだ。それからの僕は、ただ先生の仰ることをなぞっていただけだった。そんなことじゃいけないんだけどね」
 自嘲的に笑いながら俯く伊作の背を「気にすんなって!」と留三郎が叩く。「それなら小平太の方がよっぽど動転してたと俺は思うぞ」
「え? 私がか?」
 いかにも意外そうに小平太がきょとんとする。
「なにとぼけてやがる」
 にやりとした留三郎が切り返す。「長次のことを心配して一人で城に突入しかねないところだったの、覚えてないとは言わせないからな」
「そうだったかなあ」
 頭をぼりぼり掻きながら小平太が視線をそらせる。
「つまり、冷静さを失う局面があったということですか」
 きわめて冷静に仙蔵が問う。
「まあ、そういうことだな」
 半助が頷く。「もちろん仲間を気遣い、助けようとすることは大事なことだ。だが、情勢判断をするに当たっては、仲間の安否も切り捨てるような冷徹な判断力が必要だ。情によって歪められた判断力に頼るほど危険なことはない。これからのお前たちが気をつけるべきことだ」
「「はい」」
 緊張した顔で頷く六年生たちを、半助は満足げに見渡す。
(ひとつ伺いたいのですが。)
 もそりと長次が問いかける。
「どうした、長次」
(最初は先生みずから城に潜った私たちを助けに入ろうとしたと小平太から聞きました…。)
 それはなぜですか、とは聞きかねて語尾が消え入る。
「そうか…そうだったな」
 痛いところを思い出された、と半助は苦笑する。「確かにあのとき、私も動転していた。城に潜った長次たちを何としても自分の手で助けなければと思った。お前たちに偉そうなことを言えた義理ではないな」
「しかし、土井先生は優秀な忍。その程度のことで判断力が鈍るとは考えにくいのですが…」
 意外な半助の自嘲に、文次郎がためらうように訊く。
「そんなことはない」
 俯いたまま半助は小さく首を横に振る。「むしろ、プロの忍としてやっていけないことが分かったから、学園の教師になったようなものだ」
「それは…」
 文次郎が声を詰まらせる。学園の教師が多かれ少なかれ事情を抱えてプロの忍の世界から足を洗っていることは知っていた。半助にしても、普通に忍を続けていれば働き盛りの年頃で教師になった以上、よほどの理由があったのだろうとも想像がついた。ましてそこらの現役の忍よりもよほど実力のうえでは勝っているのだ。
 なにより六年生たちは、この年若い教師が好きだった。年嵩の峻厳さを感じさせるベテラン教師たちに比べて、年の近さと人柄で半助には先輩のような親しみをおぼえていた。だから、その優しい表情が苦渋にゆがむのを見たくなかった。
「さっき、冷徹な判断力が必要だと言った。覚えているな」
 俯いたまま半助が口を開く。
「…はい」
 うろたえながら文次郎が応える。
「そのためには、あらゆるしがらみからフリーハンドになる必要がある。それが主君や仲間との絆であってもだ。ああすれば主君の意に沿うのではないか、こうすれば仲間たちのためになるのではないか、判断を鈍らせるその種のあらゆる考えは捨てなければならない。だが、それはあくまで任務に当たって作戦を考え、行動する場合だけだ…!」
「…」
 半助の口調が強くなる。六年生たちが息を詰めて続きを待つ。
「…山田先生が偉大な忍である理由は、そこにあると私は思う」
 ふっと肩から力が抜けたように半助の表情が和らぐ。「普段は学園の生徒たちにも、ご家族にも、私たち教師にも、とても優しく思いやりをもって接されている。だが、いざ任務となれば、完全に非情になることができる。あの切り替えは誰にでもできるものではない」
「土井先生も…」
 伊作があえて声を上げる。「先生も、いつもお優しくて、そして任務のときには鮮やかな判断力を見せられるではないですか。今回だって…」
「だがな、伊作」
 優しい表情で半助が遮る。「だからといって、私がお前たちの手本になれない行動をしたことは間違いない」
「たしかに先生が一人で城に行こうとされたときには驚きました。でも、僕はうれしかったんです」
 伊作が身を乗り出す。「そこまでして先生が僕たちのことを気にかけてくださっていることが、僕は…」
 -そういうことがあったのか?
 -聞いてねえぞ。
 -るせえ。そうだったんだよ!
 声を詰まらせる伊作の傍らで、仙蔵、文次郎と留三郎がちらちらと視線を交わす。
「男とは…」
 俯く伊作を優しい視線で見つめた半助が続ける。「どうやら命を懸けてでも守りたいものを探してしまう生き物らしい。それが大義や名誉というものであれ、主君への忠義や仲間や家族との絆であれだ。そして、それこそが冷徹な判断力を鈍らせるそのものだと考えてしまうのが、よくある陥穽だ」
「どういう、ことですか」
 留三郎が訊く。
「忍である前に私たちは人間だ。守りたいと思うものを守ろうとするのは当然の気持ちだ。だが、忍になるためにその気持ちを自分の中から打ち消そうとする者は多い。私もそうだった」
「先生が…?」
 皆の眼が見開かれる。
「どうやら私は、情が勝ってしまう人間らしい。いざという時の意識の切り替えがどうしてもできなかった。どうしても判断に情が入り込んでしまったせいで失敗したことも多い。次に私は判断を曇らせる情を打ち消そうと思った。当然だが失敗した。それが、私が忍に向かないと見切った理由だ」
「…」
 思いがけない告白に、皆が言葉を失う。風が出てきたらしい。中庭の木の枝が鳴るのが聞こえてきた。
(…それでも、先生は私たちのロールモデルです。)
 隙間風が通る部屋に、長次のもそりとした声が重苦しく響く。
「ロールモデルとすべき人物ならもっといる」
 寂しげな笑顔で半助は言う。「忍として大成したいなら、人を選んだ方がいいんじゃないのか」
「であれば、我々も情が勝ってしまうタイプなのでしょう」
 仙蔵が澄まして返す。「先ほど伊作が言ったように、身を危険にさらしてまでも私たちの身を案じてくださいました。それに、先生は、最初からカキシメジが戦の準備をしていたのはオシロイシメジではないと気付いていらしたのではないですか」
「…そうだな」
 静かに問う仙蔵に、半助も応える。「伊作の情報を聞いて、オシロイシメジだけに絞るのは危険だと思ったのは事実だ。だが、オシロイシメジではないと確信したのは、実際に陣の様子を見てからだな」
「おそらく我々六年は全員、あの時は城周りのことしか考えていなかった。先生はすでに周辺の勢力をどうコントロールするかを考え、行動されていた。それだけでも、まだまだ私たちは先生から学ぶべきことがあるし、もっとお側で学びたい。もっといいオプションがあったとしても、私たちは土井先生から学ぶ方を選ぶでしょう」
「…」
 意外そうに半助が皆の顔を見渡す。年若い自分が六年生たちにとっては親しみやすい存在なのだろうとは思っていたが、彼らがここまで思っているとは思わなかった。
「お前たちほど優秀な生徒たちなら、もっと合理的だと思っていたのだがな…」
 揶揄するように口にした台詞だったが、声が詰まる。
「…だが、そう言ってもらえることが、教師の醍醐味なのだろうな」
 苦労して何事もなかったように続けると、半助はおもむろに立ちあがって戸棚から瓢箪と杯を取り出した。
「さあ、これからはお前たちの話を聞かせてもらう番だ。今回の演習でお前たちが何を考え、何を得たか、ぜひ聞かせてほしいんだ!」



<FIN>




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