水軍の居場所(2)

 

「水軍統帥としての任務もつつがなく果たしておるようじゃの。祝着じゃ」
「ははっ」
 上段の間で鷹揚に言う家老の前で舳丸は平伏する。その両側には侍大将や参謀、忍組頭などがずらりと並ぶ。
「すでに水軍メンバーは万全の戦闘態勢を整えております」
 忍組頭が口を添える。
「よかろう」
 満足そうにうなずいた家老がふと厳めしそうに表情を変えて続きを口にする。「水軍の初任務は、兵庫水軍の壊滅じゃ」
「は」
 ためらいなく答える舳丸に、軽いどよめきが上がる。
「そなたは兵庫水軍の出であったの」
 疑わしそうに家老が扇を開いて口元を覆う。「いわばそなたの出身母体じゃ。それでも攻撃できると?」
「はい」
 ふたたび平伏した舳丸は顔を上げると、切れ長の眼でまっすぐ家老を見上げた。「たしかに私は水軍の出です。しかし、今はベニテングタケの者です。そして、水軍には水軍の掟があります」
「水軍の掟とな?」
「水軍には合印があります。兵庫水軍は千鳥です」
 舳丸は真新しい狩衣の左肩に眼をやる。そこに合印はない。「合印は同じ掟の下にある仲間の証明です。そして、合印なき者は顔見知りであっても斬り捨てる、それが水軍の掟です」
「兵庫水軍の合印を捨てたそなたが兵庫水軍に戻る見込みはない、と?」
「そのとおりです」
 舳丸の眼がふたたび家老に向けられる。「私は兵庫水軍を捨てました。向こうも同じように思っています。戦場であいまみえたとき、たとえ見知った者がいたとしても私は攻撃するでしょうし、私を憶えている者がいたとしても、同じように攻撃してくるでしょう」
「ほう」
 扇の上から覗いた眼がするどく舳丸を射る。見上げる舳丸の視線がぶつかる。
「まあ、水軍とは特殊な風習のもとに生きているもの。我らにはいささか珍しく思われることも多かろうと思われます」
 とりなすように忍組頭が言う。「それよりも、まずは作戦を」
「さよう」
 従者がぱらりと広げた地図を指し示しながら侍大将が口を開く。「兵庫水軍はこの浦を拠点に活動しております。そこで、この浦の出入り口にあたる岬を封鎖し…」

 

 

「うまくいきましたね」
「利吉さん?」
 その夜、舳丸の部屋を訪れた利吉だった。
「たいしたものですよ、舳丸さん」
 天井板を外して部屋に降り立った利吉が笑いかける。「うまくベニテングタケの作戦をつかんだではないですか」
「見ていたのですか?」
「もちろん。天井裏からぜんぶ見ましたよ」
 懐から紙片を取り出した利吉が床の上に広げる。
 -これは…!
 思わず舳丸が言葉を呑み込む。さきほど家老の前で説明された作戦図そのものだったから。
 -忍者とは…すごいものだ…。
 作戦の内容を確認するように再現する利吉の横顔を凝視してしまう。誰にも気づかれずにこのような機密情報をあっさりと盗み取ってしまう忍者という存在にいささか怖気をふるう。
「…ただ、この岬からこのルートで兵庫水軍の海に攻め込むということでしたが、それで正しいのですか?」
 利吉の声に我に返った舳丸は慌てて図面を覗き込む。
「そうです」
「では、こうっと」
 頷いた舳丸を見ていた利吉が、おもむろに図面にベニテングタケ水軍の侵入ルートを書き込む。だが、利吉には納得しかねる点があるらしい。「いいのですか? これでは水軍館や安宅船がまともに標的になりますよ?」
「いいんです」
 にこりともせず舳丸は言う。「このルートでなければならないのです」

 


「兵庫水軍の本拠地は南に開けた、あまり閉じていない湾の奥にある。見晴らしがきくので遠くからでも接近に気付かれてしまう…」
 ベニテングタケ城では、ベニテングタケ水軍にヤケアトツムタケ水軍が加わって兵庫水軍攻めの作戦会議が開かれていた。図面を広げて説明しているのは舳丸である。
「それが、いつも我らが兵庫水軍を攻めあぐねていた理由だ」
 ヤケアトツムタケの参謀が苦い顔になる。
「しかし、ベニテングタケとヤケアトツムタケの連合軍となれば話は別だ」
 舳丸は続ける。「兵力では兵庫水軍を上回る」
「だが、ベニテングタケ水軍は、まだ兵力としてはにわか仕立てに近い」
 ヤケアトツムタケの参謀の指摘に遠慮はない。「兵庫水軍を相手にできるのか」
「おっしゃる通り、こちらの水軍兵力の練度はまだ低い」
 何か言いかけるベニテングタケの忍組頭を制して舳丸は言う。「だから、ベニテングタケ水軍は陽動作戦に、そして兵庫水軍をおびき出したところでヤケアトツムタケ水軍が叩くことにしたい」
「ほう?」
 明らかに興味をそそられたようにヤケアトツムタケの参謀が身を乗り出す。
「喫水の浅い小型の関船でできるだけ浦に近づいて攻撃する。水軍の海には乱杭や逆茂木などの仕掛けがあちこちにされているが、私が教えるルートを通れば確実に攻撃可能な距離まで近づくことはできる」
「目標は安宅船か?」
 ベニテングタケの参謀が訊く。
「そう。火縄の集中砲火を浴びればいやでも沖に出てこざるを得ない。そこをヤケアトツムタケが叩けば、兵庫水軍といえども持ちこたえられない」
「「なるほど」」
 一同が大きく頷く。
「で、攻撃は明後日とする」
「「え?」」
 唐突な発言に皆が唖然とする。
「明後日は大潮だ。いちばん浦の奥まで入り込むチャンスだ」
 ぼそりと舳丸が説明する。
「それは分かるのだが…いささか急すぎるのではないか」
 当惑しきった表情でヤケアトツムタケの参謀がいう。
「時間がない。次の大潮まで待っていては、その分準備する時間を与えてしまう」

 

 

「…ということなのですが」
 利吉は水軍館にいた。ベニテングタケの作戦を伝えるために来たのだ。
「なるほどな…こりゃ面白い」
 顎に手を当てた兵庫第三共栄丸がニヤリとする。
「ふ…やるな」
「さすが舳丸だ」
 義丸や疾風たちも納得したように頷く。
「それはどういう…」
 真意が理解できない利吉の口調に苛立ちが混じる。水軍メンバーは勝手に納得しているが、それがどういう意味を持つものか教えてくれないのはどういうわけだ…。
「利吉さんが教えてくださった作戦によれば、敵は兵庫水軍の海を囲む浦の両側に陣を取る計画となっています。東側の岬にヤケアトツムタケ、西側の岬にベニテングタケです。ベニテングタケ軍が先に出撃して兵庫水軍をおびき出し、沖合まで出たところで挟み撃ちにする作戦とのことです」
 皆に代わって鬼蜘蛛丸が地図を指しながら説明する。
「で、ベニテングタケはおとり、というわけだな」
 顎に手を当てた由良四郎がしたり顔で言う。
「…」
 いぶかしげに利吉が顔を上げる。
「ベニテングタケは、舳丸に養成されてようやくできたようなにわか仕立ての軍だ。舳丸がまともな水軍の戦い方を教えたとは思えんから、戦力としてはまるであてにならない。そのことはヤケアトツムタケもよく分かっているはずだ。だから、数を頼むのに使って、戦闘は自分たちでやるつもりだろう」
「だからこちらからもひとつ仕掛けてやるってわけさ」
 いたずらっぽく義丸が言う。「東側のヤケアトツムタケの背後を別動隊が衝いてやるってのはどうだ?」
「それもいいが、ヤケアトツムタケは海戦には詳しい。当然そんな作戦は織り込んだ布陣をとるだろう」
 腕を組んでいた第三共栄丸が口を開く。
「ではどうすれば…」
「なに、いい案がある」
 戸惑ったように訊く義丸にむかって第三共栄丸がニヤリとする。「忍術学園に協力を頼んである。援軍が来ることになっているから、疾風、鬼蜘蛛丸、東南風、お前たちは東側の岬の裏で合流しろ」
「「はいっ!」」
 立ち上がって船を出しに駆け出す疾風たちの背を見送りながら、残った水軍メンバーが顔を見合わせる。
 -忍術学園に応援って、いったいなにをするつもりだ?

 

 

「いよいよ兵庫水軍の海だな…」
 船頭が小心そうに呟くのが耳に入る。
 -それはそうだろう。兵庫水軍に手を出したらどうなるか、これから分からせてやるからな…。
 むすりと黙ったまま、屋形の上から海を見つめる舳丸だった。たっぷりとした袖や裾が風にはためく。悠揚として進行方向を眺めているように見える舳丸だったが、内心は激しく逡巡していた。
 -作戦とはいえ、俺は仲間たちに弓を引こうとしている…。
 なつかしい海を眼にした瞬間、それまで封じ込めてきた迷いがむくむくと膨れ上がってくるのが止められなかった。
 作戦だと言い含められてきた。それに納得したからこそ、自分はこれまでベニテングタケ水軍の育成に力を注いできた。もちろん、本当の敵にならないよう戦い方はまともに教えていない。そもそもようやく泳げるようになった忍者たちが主体の水軍なのだ。兵庫水軍の敵ではない。
 -だが…。
 それでも、いま、自分は兵庫水軍を沖から攻める立場にある。まじめな性格の舳丸には耐えられないことだった。
「もうすぐ満潮ですぞ! そろそろ突入の許可を!」
 潮に眼をやっていた船頭が大声で訊く。
「…」
 なおも決断できずにいる舳丸だった。
「統帥殿!」
 ふたたび船頭が叫ぶ。ついに決心したように舳丸はきっと前を見据えた。
「突撃!」

 

 

 法螺貝が吹き鳴らされ、舳丸の乗った安宅船の周りに展開していた関船が一斉に浦に向かって進み始める。
「よおし、あの安宅船を狙え!」
 関船の舳先に立った小頭たちが叫ぶと、鬨の声が上がって一斉に矢が放たれる。
「安宅船は動きが遅い。もっと近寄せて射掛けろっ!」
 小頭たちの指示に、関船はもがや安宅船に衝突しそうな勢いで進撃する。だが安宅船は動かない。と、その陰からたくさんの小早(小舟)が一斉に漕ぎ出してきた。
「なんだとっ!」
 動きの速い小早はあっという間に関船の側まで漕ぎ寄せると、投げ焙烙を放り込んではすばやく矢の届かない距離まで逃げることを繰り返す。たちまちいくつかの関船で爆発が起こり、帆柱が折れたり船腹に穴があいて沈み始めた。
「て、撤収!」
「面舵いっぱい!」
 動転した小頭たちの指示で生き残った関船が引き返そうとするが、パニックに陥った船内では右旋回を指示したのに左舷の漕ぎ手が漕ぎ続けたり、舵を逆方向に切ったりして右往左往し、ついに互いに衝突したり漂流を始めたりしていた。その間に数隻の小早が関船の群れの横を回り込んで舳丸の乗るベニテングタケの安宅船に向けて突進してきた。
「まずい! このままでは挟み撃ちだ! すぐにヤケアトツムタケの応援を呼べ!」
 動転した声で忍組頭が叫ぶ。
「は!」
 返事はしたものの、水軍の伝令はそのまま動きかねて控えたままである。
「ええい、何をしておる!」
 忍組頭がさらに声を上げて怒鳴る。
「そう言われましても…」
 言いさして伝令は舳丸に視線を向ける。水軍はすべて統帥のもとに行動する。その指示がないのに動いてもいいものかと迷っていた。
「行け」
 舳丸が頷く。ようやく安心したように「はっ!」と返事すると、伝令が駆け出して伝馬船に飛び移る。
「よお、裏切り者の舳丸!」
 その間に安宅船の先端まで寄った小早の舳先に立った義丸が怒鳴りあげる。「どのツラ下げてここまで来やがった!」
 鉤役らしくその肩に須磨留を担いでいたが、投げてくる気配はない。
「…」
 なんと返してよいか分からず、黙って舳丸は小早を見下ろす。
「ここはお前の来るところじゃねえ! とっとと失せやがれ…おっと!」
 放たれた矢をひょいと避けるとふたたび義丸はニヤリとして舳丸を見上げる。そのうしろで櫂を使っていた重がすばやく小早を転回させると漕ぎ去っていく。
「…なるほどな」
 背後から声がかかった。忍組頭だった。「ずいぶんな嫌われようだな」
 -観察してたということか…。 
 本当に兵庫水軍と縁を切ったのか、見張っていたということだ。
「それがどうした」
 そう応えるのが精一杯だった。

 

 

「もう出撃か? ちょっと早いようだが…」
 ベニテングタケの伝令が届けた書に眼を通したヤケアトツムタケの組頭が呟く。
「このままでは挟み撃ちになってしまいます。ぜひご出撃を」
 伝令が付け加える。
「うむ…では我らも出撃する」
 重々しく頷く組頭に「「ははっ」」と控えた将官たちが短く応える。
 -安宅船を囮に使うとは意外だったが、小早に囲まれたくらいで応援要請とは情けない…。
 伝令の報告を頭の中で反芻しながら組頭は考える。
 -所詮、その程度の役割しか期待してはいなかったが…。
 小さくため息をつきながら海図に眼を落したとき、「大変ですっ!」と部下が叫びながら駆け込んできた。
「なにごとだ。騒々しい」
「我らの背後に別の船が!」
 それも想定内のことだった。ここは兵庫水軍の本拠地なのだ。自分たちの停泊地の背後から別の船で攻撃してくるくらい、当然のことだった。
「打ち払え。どうせ大した軍勢ではあるまい」
 本拠地の浦に安宅船をはじめ主だった船が停泊しているのは確認している。いま攻撃を仕掛けてきたのはせいぜい小型の関船か小早くらいであろう。いずれにしても本格的な火器を装備したヤケアトツムタケ水軍からすれば、簡単に打ち払える相手だった。
「いえそれが…」
 報告する部下の口調は歯切れが悪い。
「どうした」
 苛立ちを隠せずに組頭の声が尖る。「背後から攻めてきたということは、兵庫水軍の戦力は分断されているということではないか。さっさと個別撃破してしまえ」
「いえ、その…」
 部下の口調はますます震えを帯びる。「兵庫水軍ならまだマシなのですが…」
「兵庫水軍ではないだと?」
 組頭が眉を寄せる。「別の水軍と同盟を組んでいたというのか?」
 そうであるならばきわめて都合が悪い、ととっさに考える。場合によってはこの場は戦力の消耗を防ぐために撤退しなければならないかもしれない。そもそも兵庫水軍をいくら探っても同盟を組む水軍の存在は出てこなかった。それほどまでに兵庫水軍の情報管理能力は高かったというのか?
「いえ、そうではなくて…あれはどう見ても妖怪…」
 物わかりの悪い上司の理解を促すためとはいえ、タブーを口にしてしまった部下が慌てて口をふさぐが、すでに顔面蒼白である。
「とにかく相手は兵庫水軍などではありません! あとは組頭ご自身でご確認を!」
 言い捨てるとバタバタと走り去る。
「あやつが戦線を離脱したら、即刻斬り捨てだ」
 控えた参謀たちに軽口を叩きながら立ち上がる。外の様子を確かめようと思った。だが、屋形を出た組頭が眼にしたのはすでにパニックに陥った船内だった。
「逃げろ!」
「この船も終わりだ! たたられるぞ!」
 水夫たちが口々に叫んでは海に飛び込んでいく。
「何事だ」
 駆けずり回っていた水夫の一人の腕をつかんで訊く。
「なにって…!」
 懸命に腕を振りほどこうとしながら水夫は恐怖に青ざめたまま舌をもつれさせる。「あ、あんなおそろしい妖怪は見たことも聞いたことも…」
 そして強引に腕を振りほどくと、舷側に足をかけて海へと飛び込んでしまった。
「妖怪だと? バカバカしい」
 言いながら逃げ惑う水夫たちの流れに逆らって右舷に近い舳先へと歩いていく。と、これまで感じたことのない禍々しい妖気をおぼえた。
「まさか」
 自分を鼓舞するように呟いてさらに足を進める。と、見知らぬ船が視界に入った。そして舳先の先端に括りつけられた人らしき影。
「はじめまして~」
 いくつもの人魂に囲まれたその人物が口をきいたように思えた。次の瞬間、組頭は声にならない悲鳴を上げながら踵を返して走り始めた。

 

 

「なに! ヤケアトツムタケが逃げ出しただと!?」
 伝令の報告にベニテングタケの忍組頭が絶句する。
「はい! このままでは我らも袋のネズミです!」
 悲鳴のような声を上げる伝令の背後では、すでにパニック状態の水夫たちが持ち場を放り出して船内を右往左往していた。その間にごん、ごん、と鈍い音が響くと船体が大きく揺らいだ。
「何事だっ!?」
 かろうじて足を踏ん張りながら忍組頭が怒鳴る。ぎぎぎ、みしみしと常ならぬ音を響かせながら船体が傾き始めた。
「たいへんです! 船が流されて…」
 口角泡を飛ばしながら報告する忍を突き飛ばして忍組頭が甲板に駆け上る。そこで眼にしたのは信じがたい光景だった。
「なんだこれは…!」
 安宅船はルートを大きく外れていた。そして、周囲の半ば破壊された関船の群れと一団になって漂流を始めていた。そして衝撃は、安宅船の舷側に舳からぶつかった関船が徐々に安宅船にのしかかるようにせりあがって来たことによるものだった。
「なんだもこんなもあるか!」
 屋形の上に立った船頭が怒鳴りながら腕を振り回す。「この潮を見ろ! 急に横から流れてきたせいで碇綱も切れちまったよ!」
「なんだと…」
 後に続いてきた参謀たちも言葉を失ってぶつかり合いながら漂流する船団を見つめる。
 -重だな。
 後から甲板に上がって来た舳丸には、碇綱を切りまくったのが誰かすぐに分かった。
 -やるようになったな、アイツも…。
 まだまだだと思っていた後輩だったが、速い潮流のなかでここまで手際よく仕事をするようになっていたらしい。
「どういうことだ! 説明しろ!」
 いきり立った忍組頭が舳丸に詰め寄る。
「大潮のときの潮の引き始めはこうだ」
 ぼそりと舳丸は応える。「岸と平行に潮が流れる。それもかなり速い」
「何を冷静に語ってやがる! このままだと…!」
「そう、このままだとまずい」
 拳を突き出して怒鳴る忍組頭など視界にないように舳丸が続けたとき、ずしん、と船底から突き上げるような衝撃があって舳丸を除く全員が甲板に身体を投げ出された。背後で無駄に走り回っていた水夫たちから悲鳴が上がる。
「今度はなんだというのだ!」
 手すりを伝いながら船頭が闇雲に周囲を見渡す。
「ルート外には仕掛けがあると言ったはずだ。逆茂木とか乱杭とか」
 傾きつつある甲板の上でようやく身を起こしている忍組頭や参謀たちを冷たく見やりながら舳丸は言うと、烏帽子を解いて放り投げて懐から出した手拭いを頭に巻き付ける。次いで統帥の狩衣を脱ぎ捨てる。そこには水軍の合印を縫い込んだ服をまとった舳丸がいた。
「な、なに…!」
 歯ぎしりをした忍組頭が思わぬ事態に後ずさったとき、
「じゃあな」
 低く言い捨てると舳丸は舷側に足をかけるときれいなフォームで海に飛び込んだ。
「お、おい! 裏切り者だ! 早く、早くアイツを射殺してしまえ!」
 舷側から身を乗り出した忍組頭が怒鳴るが応じる者はいない。関船の一隻に乗り上げられ、他の関船ともつれあいぶつかり合いながら漂流する安宅船からみるみる舳丸の姿が遠ざかる。
「どういうことだこれはぁぁぁっ!」
 忍組頭の声が、混乱の海にむなしく響く。

 

 

 

「よっ、この千両役者!」
「さすがです!」
 水軍館にたどり着いた舳丸に、仲間たちが駆け寄る。
「舳兄ィ!」
 最初に舳丸にむしゃぶりついたのは重だった。「よかったです…帰ってきてくれて…」
「重…」
 戸惑ったようにその肩に手をかけようとしたとき、
「おかえりなさい!」
「カッコよかったです!」
 言いながら若い衆がぶつかるように身体を寄せてくる。
「よくやった。舳丸」
 その後ろで兵庫第三共栄丸が大きく頷く。「お前ならやってくれると思ってた。俺の見込みに間違いはなかったな」
 ようやく兵庫水軍に帰って来たという実感が込み上げてきた。舳丸らしい控えめさで、それでもあふれる思いを込めて口を開く。
「はい!」

 

 

 -ここが、俺がいるところだ…。
 満天の星空に波がきらめく。汀に立つ舳丸の足元に寄せる波はひやりと冷たい感覚で、足をひたすとすぐに砂や小石を巻き込みながらくすぐったい感覚とともに引いていく。
 -これだ。この感覚だ…。
 ベニテングタケ水軍の統帥に祭り上げられてからというもの、海に足すら浸したことがなかったことを今更ながらに思い出す。そして、ふたたび慣れ親しんだ海に戻って来たたとえようもない安堵をおぼえる。
「よう、いい経験になったか?」
 いつの間にか義丸が傍らに立っていた。
「はい…でも、二度とごめんです」
 正直なところを口にする舳丸だった。兵庫水軍の仲間に言葉を選ぶ必要などない。
「…そっか」
 短く応える義丸だった。
「ところで、どうしてヤケアトツムタケは援軍に来なかったのでしょうか」
 ふと気になっていた疑問を口にする。
「ああ、そのことか」
 おかしそうに義丸がくっと笑う。
「どうしたのですか?」
「いやな…忍術学園に協力してもらったんだが…なかなか強烈だったらしいな」
「強烈?」
「ああ。忍術学園にお化けみたいな先生がいらっしゃるらしくてな…その先生を関船の舳先に括りつけてヤケアトツムタケに向かって突進したらしい。そっちの作戦に回った疾風兄ィたちの話だと、本当に新手の妖怪みたいに見えて、そりゃ怖かったらしいぜ」
 言い終わるとふたたび義丸は笑いをかみ殺した。
「で、ヤケアトツムタケは逃げ出したってわけですね」
 つられて舳丸も苦笑する。
「そういうこった」
 笑いを含んだまま言うと、義丸の表情がふいに引き締まった。くせのある髪が海風にあおられて大きく揺れる。「悪かったな」
「悪かった?」
 舳丸が顔を向ける。
「ああ。お前、ずいぶん追い詰められたツラしてたからな」
 夜空に顔を向けたまま義丸は低い声で続ける。「よっぽどホントに裏切ったのかと思ったほどだったぜ」
「まさかそんな…」
 慌てて舳丸が言い募る。「これは単なる作戦で…」
「わかってるさ」
 義丸は顔にかかった前髪を払う。「まあ、お前があのとき何を思ってたかなんて、分からん俺たちじゃないけどな」
 言いながら顔を向けてニヤリとする。
「だからそんなしけたツラすんなって! あんまりマジメにやってると、もっと眼つきが悪くなるぜ!?」

 

 

 

<FIN>

 

 

 

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