伊作奔る(5)

 今日も、実験室には、葛西の弟子である多くの医生たちが、実験の準備や片付け、記録に追われていた。新野は、実験を終えて、昼食のために部屋に戻ろうとしていた。
 葛西には、弟子の数を誇る気があったから、抱える弟子はかなり多かった。実験室に現れる弟子たちも、日によって異なるようなので、いつも葛西の側に張り付いている数人の高弟を除いて、新野にはその顔や名前を覚えることはできなかった。
 ふと、足元に筆が転がってきた。そそっかしい弟子の一人が、文机から取り落としたのだろう。拾ってやろうと腰を落としかけたとき、筆を落とした本人が駆けつけてきた。
「も、もうしわけありません」
 恐縮しきったさまで平伏している。
「気をつけなさい」
 言ってまた歩きかけたとき、不意に筆を拾った弟子が顔を上げた。その顔に、新野は危うく声を上げるところだった。
 -善法寺君!
 それは、まぎれもなく伊作だった。

 


「ああ、君。ちょっとこの壷を運んでくれないか」
 数日後、ふたたび姿を現した伊作に、新野はさりげなく声をかけた。
「はい。この壷でよろしいでしょうか」
「そう。気をつけて運んでくれたまえ」
 伊作の前で、後ろ手を組んで歩きながら、新野はささやく。
「善法寺君、こんなところに来ては危険だ。もし君の立場が割れてしまったら、君ばかりではない、学園が危険なのです。一刻も早く学園に戻りなさい」
「いえ、戻りません」
 キッパリと答える声に、思わず後ろを振り向いてしまう。やや伏せた伊作の口許には、不敵な笑いがある。
「どういうことですか」
「学園長先生のいつもの思いつきで、この作戦が、私たちの卒業試験の一部に組み込まれたからです」
「なんと…」
 新野は頭を抱えたくなる。この期に及んで何を考えているのだ、大川は。
「私たちは、学園を卒業するためにも、なんとしても作戦を成功させなければなりません。ですから、先生には、ぜひご協力をお願いします」
 それだけ言ってにやりと笑うと、伊作は普段の声で続ける。
「壷は、こちらに置けばよろしいでしょうか」

 


 その後のやりとりで、新野は、自分の救出作戦とツキヨタケの研究の破壊の全容をつかんだ。そして、すでに伊作だけでなく、仙蔵も潜入していることを知った。

 


 決行の夜が来た。その夜、台所女中としての仙蔵は、下級家臣向けの食事に出される汁や肴、酒に大量のハンミョウの粉を混入していた。城主や上級家臣向けの食事には、まだ潜入して日の浅い仙蔵が手を触れる余地はなかったし、毒見がいるから計画が露見するリスクは高かった。もともと騒ぎを起こすことが目的だから、圧倒的に多い下級家臣が一斉に中毒症状を起こしたほうが効果的なのだ。
 伊作の見立てでは、致死量には届かないが中毒症状は十分に起こせる程度の毒性はあるとのことだった。だから、毒を混入し終わると、仙蔵は早々に女中の変装を解いて、天井裏に忍んだのである。
 新野の部屋の周辺で警備に当たっている忍にも、交代時間が迫っていた。新野に対する警備も、最近はとみに弱まっていた。強水(硝酸)のお披露目を兼ねた新たな戦に向けて、敵情偵察に忍者隊の主力が投入されていることもあり、新野の警備には経験の浅い忍が投入されることも多くなっていた。
 交代したばかりの忍が、まだあまり慣れていない忍であることも、調査済みだった。城中で騒ぎが起これば、動転してまず使い物にならなくなることは間違いなかった。
 そしてその日の夕方、退出時間が迫って慌しさを増した研究室から、ごみを片付けに出た伊作が戻らないことに気付いた者はいなかった。弟子の変装を解いた伊作は、利吉と待ち合わせて、騒ぎが起きるのを待ち構えていたのである。

 


「交代だ」
「ああ、待ってたぞ。なんか今日はやけにうまそうな匂いがして仕方ないんだ」
 新野の座敷の隣の間で、警護の忍が交代の引継ぎを行っていた。
「ヤツはどうした」
 新野の警備は、二人体制で行われていたが、交代の場に現れたのはそれぞれ一人だけだった。実のところ、それぞれの相方は利吉によって始末されていたのだが。
「それが、厠にでも行ったのか、戻ってこないんだ」
「仕方がないな。俺の相方も、いくら待っても来ないから先に来てしまったんだが」
「城中で迷ってるんじゃないのか」
 退出するほうの忍が、声を潜めて笑う。
「…実は俺も、この前迷ったばかりだ。このお城はずいぶん広いからな」
「まったくだ」
 交代するほうの忍も小さく笑う。
「ヤツがいたら、すぐに合流するよう伝えてくれないか。俺一人ではいくらなんでも無用心だからな」
「ああ、わかった」
 だが、一人残された忍も、たちまち利吉と伊作によって始末されたのである。

 


 夕食の膳を前にした新野は、隣の間の暗闘にとっくに気付いていた。
 -いよいよ、来ましたな。
 実は、新野は、まだ迷っていた。
 -このまま去って、いいのか。自分が学園に逃げ込んだら、学園がツキヨタケの標的になってしまうのではないか。
 しかし、学園以外に逃げる先はなかった。どのみち、伊作たちは新野を学園に連れ帰るだろう。
 精一杯の援護は、したつもりだった。研究室全体に、そっと手に入れておいた硝石と、利吉を通じて手に入れた硫黄、木炭で作った火薬を仕掛けてあった。伊作たちの作戦では、外から火のついた砲弾を投げ込むということだったので、研究室のどこに着弾しても一瞬で火が回るように伝火を仕掛けておいたのである。
 城の焔硝蔵の位置も、利吉に伝えてあった。焔硝蔵は本丸近くにあって、新野が近づくことはできなかったが、利吉が必要な工作は施すだろう。

 


「葛西先生! たいへんです!」
 城内に葛西が構えていた屋敷に、城からの急使が飛び込んできた。夕食の膳についていた葛西が不愉快そうに振り返る。
「なにごとだ。夕餉どきに」
「城内で集団食中毒が発生しました!」
「なんだと」

 


 葛西が高弟たちを引き連れて城内の医務室に駆けつけたときには、多くの侍や足軽、小姓、奥勤めの女たちが運び込まれていた。部屋ではすでに新野が患者の治療に当たっている。
「新野先生、何事ですかこれは」
 葛西が戸口に突っ立ったまま思わず叫ぶ。その間にも、次々に患者が運び込まれている。
「吐き気や腹痛、嘔吐、下痢などの症状が見られます。典型的な食中毒です。葛根黄連黄芩湯を処方しているところですが、患者が多すぎてとても手が足りません」
 新野が説明する。
「わかりました。君たち! 何を突っ立っているんだ。すぐにあるだけの薬を薬房から持ってくるのだ!」
 葛西に指示された高弟は、しかし首を傾げている。
「しかし、先生。これだけの中毒が発生するというのはおかしくありませんか。症状が重すぎるような気がします。何か、別の原因があるのでは…」
 -おや、いいカンをしてますな。
 治療を続けながら、新野が耳を傾ける。
 -ハンミョウの粉を相当量入れたらしいですからな。葛根黄連黄芩湯くらいで効くわけはないのですよ。
「何を言う! 『傷寒論』にも収載されているように、下痢には葛根黄連黄芩湯と決まっている! つべこべ言わずに薬を持ってくるのだ!」
 動転した葛西に、高弟たちの疑問は届いていないようである。高弟たちは仕方なく、薬房へと走る。

 


「よし、合図だ」
 城の二曲輪からちらちらと灯りが点滅している。仙蔵が、城内の食中毒騒ぎの様子を見計らって送ってきた合図である。
「砲弾用意!」
 留三郎率いる砲撃隊は、木砲でも攻撃できる距離まで城に近づいていた。通常ならば警備の兵がいるところだが、城内の食中毒騒ぎに取り紛れて、監視の目は全くない。
「はい!」
 兵助が、留三郎が構えた木砲の中の砲弾に点火しようとする。その頭をむんずと掴んで強引に引っ張る者がいる。
「え…?」
 兵助が慌てて目を上げる。そこにいたのは、七松小平太である。
「七松先輩!」
「いいから、私の砲弾に点火するのだ」
「は、はい」
 小平太の手には、投げ焙烙よろしく縄を結んだ砲弾がある。兵助が点火する。
「危ないから、離れてろよ」
 小平太は、にやりとすると縄をぶんぶんと振り回し始めた。
「どんどーん! 発射!」
 小平太が放った砲弾は、まっすぐ城の二曲輪へ飛んでいく。
「よーし、次だ!」
 すでに小平太に動員された雷蔵たちが、砲弾に縄を結わえている。

 


「どんどーん!」
 もはや留三郎が手にした木砲は使う余地がない。縄を結んだ砲弾に兵助が火をつけるや、小平太が奪い取って、投げこんでいく。
 -ったく、しょうがねぇな。
 立てた木砲に肘をつきながら、留三郎は苦笑する。
 -これじゃ、用具委員の出番がないだろうが。
 その間にも、小平太の攻撃は続く。すでに二曲輪のあたりからは火の手が上がっている。
「いけいけどんどーん! 投げ焙烙おっもしれえ! どんどーん!」
 やたらめったら投げ込んでいるようで、その実、狙いは定まっている。城の構造は頭に入っている。最初の数発を二曲輪の研究室めがけて投げ込んだ後は、徐々に本丸に向けて砲弾を投げ込んでいく。最初に侍所、次に焔硝蔵の近く、更に新野の居室の近く。今頃、城の内部では、食中毒に続く火の玉の襲来にパニックが巻き起こっていることだろう。
「よーし次だ! どんどーん!」
 小平太が次の砲弾を投げ込んだ瞬間、ずん、と地響きがして、研究室を含むニ曲輪が大爆発した。
「ほう。なかなかやるの…」
 城を望む森の外れから、学園長の大川が遠眼鏡で城の様子を覗っていた。
「これなら、今年の六年生も、自信を持って売り込めるわい…のう、ヘムヘム」
 傍らのヘムヘムも遠眼鏡を使いながら返事する。
「ヘムヘム」

 


「新野先生、参りましょう」
 利吉と伊作が、新野の前で片膝をついて控えている。すでにニ曲輪の爆発に加え、城内のあちこちに砲弾が着弾し、そこここでパニック状態となっている。
「そうですな」
 砲撃が始まる前に、薬を取りにいくふりをして医務室を離れていた新野がゆるりと腰を上げた瞬間、襖が乱暴に開いた。利吉と伊作が身構える。
「そうはさせんぞ」
 入ってきたのは、葛西だった。髪は乱れ、眼は怒りでぎらぎらと輝いている。
「私の計画を…この国の科学の歴史に永遠に名を刻むべき計画を…!」
 あとは言葉にならず、歯軋りをしながら一歩一歩、新野に向かって近づいてくる。
「私が、あのような計画に、本気で協力すると思われていたのですかな」
 泰然として新野が言う。
「協力すると言ったのは新野、お前だぞ」
「残念ながらいまは戦の世。向背常ならぬことは実に残念なことです」
「新野…この借りは、必ず返させてもらうからな」
「その前に、ご自身の安全を図られたほうがいい…この部屋も危険ですよ」
 では、と新野が頷くと、新野を背負った伊作が坪庭に飛び降りて駆け出す。利吉が周囲に眼を配りながら続く。
「先生、あの部屋が危険とは」
 本丸から馬場へと走りながら、伊作が訊く。
「黒色火薬が思ったより余りましてな。仕方がないのであの部屋に仕掛けておいたのです。火が回れば、たいへんなことになるでしょうな」
 新野が、笑いをかみ殺すように言う。
「先生も、なかなかやりますね」
 伊作も、息が上がりかけながらも笑う。一人前の忍になるべく、日ごろから鍛えて体力には自信があるつもりだったが、重い新野を背負って全力で走るのはかなりの苦行だった。
「伊作君、こっちこっち!」
 馬場には、すでに利吉が厩から馬を二頭引き出していた。
 新野の身体を馬上に押し上げると、利吉はもう一頭にまたがって言った。
「新野先生を頼む」
「利吉さんは?」
 新野の後ろに回りこんで手綱を握った伊作が訊ねる。
「最後の一仕事さ」
 軽く片手を上げて笑うと、利吉は本丸に向けて馬を駆っていった。
「先生、私たちも」
「頼みますよ」
「はい」
 いまや、本丸にもあちこちで火の手が上がっていた。水で消そうとすると却って燃え広がる厄介な火の玉に、城内のパニックはまだ続いていた。だが、浮き足立っていた警備の侍たちの数人が、火災の炎に照らされた馬場を突っ切る馬に気付いたらしい。
「あの馬はなんだ」
「二人乗っているぞ」
「火縄だ! 火縄で狙うんだ」 
 弾丸が耳元をかすり始めた。新野を庇うように身を低くしてまたがっていた伊作にも、危険が感じられた。次の瞬間、周囲がひときわ明るくなると同時に、どどど、と立て続けに地響きがした。馬が驚いていななき、後足立ちになる。
 -振り落とされる!
 伊作が思わず眼をつぶったとき、新野が腕を伸ばして馬の耳をつかんだ。たちまち馬がおとなしくなる。
「さあ早く。お願いしますよ、善法寺君」
「は、はい」
 気を取り直した伊作が、仲間の待つ場所へと馬を駆る。

 


「あの爆発は、利吉さんが焔硝蔵を爆破したものだったのですか」
「ああ、そうだよ。新野先生に焔硝蔵の場所を教えていただいたんだ。やるなら徹底的にやらなければね」
 城から十分はなれたところで、並足になった馬を並べて、伊作と利吉が話している。
「あ、新野先生だ」
「新野先生!」
 新野の姿をいち早く見つけた八左ヱ門が、次いで五年生たちが駆け寄ってくる。
「ご心配を、おかけしましたな」
 馬から下りた新野が、穏やかに笑いかける。
「おうい」
 伊作が手を振ると、六年生たちも近づいてきた。
 

 

 ずずん、とまた地響きがした。文次郎たちが思わず城を振り返る。
「ようやく火が回ったようですな」
 のんびりと新野が言う。
「どういう、ことですか」
 呆気にとられた表情で、文次郎が呟く。
「先生が、余った黒色火薬をご自身のお部屋に仕掛けられたんだ。あれが最後の爆発だろう」
 伊作が答える。
「ったく保健委員は…」
 文次郎が舌打ちする。
「予算を減らされるいわれはないぞ。こうやって新野先生をお連れすることができたし、ツキヨタケにダメージを与えることもできたのだからな」
(あのえげつない火器のおかげでな)
 長次が呟く。
「作法と保健がタッグを組めば、こんなもんさ」
 伊作たちの後を追って城を脱出してきた仙蔵が涼しげに言う。
「あのえげつなさは、たしかに保健委員特製のもっぱんを軽く超えたな」
「確かにそうだ」
 ははは…と笑い声が上がる。
 

 

 学園に戻ったのは未明だった。救出に参加した五、六年生は早々に部屋に戻って眠りについたが、医務室には灯りがついている。
「善法寺君、手紙を読みましたよ」
 新野は穏やかに話しかける。
「いえ…お恥ずかしい限りです」
 いろいろな意味で追い詰められていた状況だったとはいえ、あまりに本音を吐露しすぎたことに、伊作は恥じ入る。
「いえ。君の真心はよく伝わりました。それに…」
「それに?」
「私の選択は間違ってなかったと、はっきり分かりました」
 静かに、だがはっきりと、新野は言い切る。
「どういう、ことでしょうか」
「善法寺君の、医術に向けたひたむきな気持ちがよく分かったということです。ただし、ひとつだけ言っておくべきことがあります」
「はい」
 伊作が居ずまいを正す。
「君は、自分の非力さを嘆いていたが、医療者としては、それは許される態度ではありません」
「どういう、ことでしょうか…」
「嘆いている暇があったら、手を動かすこと。頭を働かせること。一人でも命を救うこと。そのことに尽きます」
 新野の表情は柔和なままである。だが、その眼は鋭く伊作を捉えている。
「はい!」
 伊作は思わず平伏する。

 


「先生、学園にも私にも、やはり、まだ先生が必要です」
「一度引き継いだバトンは、戻ることはありえません。だが、君は忍たまで、卒業を控えていろいろとたいへんなことも分かっています」
 新野は言葉を切った。伊作を見つめる眼は、いつもの穏やかな眼差しに戻っている。
「先生…」
「私も、あの書の注釈についてはやり残したものがあるし、まだまだお手伝いしていくつもりです。君をサポートしていくつもりですよ」

 


「いいか、診断法には昔から四診といって、四つの診断法がある。すなわち、望診、聞診、問診、切診だ」
 放課後の医務室では、伊作が数馬や左近を相手に、診断法の説明をしている。
 -熱心なことですな。
 書に眼を通しながら、新野はそっと苦笑する。三年生の数馬はともかく、二年生の左近は、まだ遊びに行きたくてうずうずしているのではないだろうか。一年生の乱太郎と伏木蔵は、とっくに遊びに行ってしまっている。
「四診の基本は、患者の状態を観察し、どのような病気であるかを正確に把握することにある。病状の正確な把握こそが、正しい治療のスタートになるんだ」
 左近があくびをかみ殺している。
「望診、聞診で大切なのは、顔の観察だ。皮膚の色や張り、声の調子や呼吸音、体臭や口臭なども重要なポイントだ。顔以外にも皮膚が腫れているか黒ずんでいるか、姿勢や歩き方などに異常がないか、見落としてはいけない」
 数馬は、熱心にメモを取っている。
「問診とは、本人から症状などについて聞き取ることだ。本人がどんな症状を自覚しているのかを正確に聞き取らなければならない。ただし、本人が病を決め付けている場合があるが、それに惑わされないこと。たとえば、熱がある、背中がゾクゾクするという症状を訴えているとして、それが風邪なのか、破傷風なのか、あるいは他の病なのかを判断するには、発熱という表に表れた症状からどのような病気が考えられるか、それぞれの病気の原因になるようなことがなかったかどうかをひとつひとつ確認していく必要がある。だから、問診は重要なんだ…」
 -私の教えたことを、忠実に守っているようですな。
 伊作の言葉が、かつて伊作に対して自分が語った言葉、更に、自分に対して仁斎が語った言葉と重なっている。
 -これこそ、仁斎先生が、多くの先達方が望まれたことなのだ。
 窓の格子の外から、ヒバリのさえずる声が聞こえる。穏やかな晩春の午後が、ゆるやかに過ぎていく。

 

<FIN>

 

 

       ≪ 5

 

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