ケシレカリプの終着駅(2)

「ここには縄が仕掛けられている」
 兵庫水軍の本拠地の地図が眼の前に広げられている。その一点を指しながら網問は説明している。
「ふむ…」
 ヤケアトツムタケ忍者たちが居並ぶ一室に通された網問は、眼の前に据えられた地図に水軍の張り巡らせた罠を示すよう命じられた。狩衣の男はいつの間にか姿を消していた。
「だけど、縄はときどき張り替えられる」
 網問が続けたとき、「なぜ」とヤケアトツムタケ忍者の一人が低く問う。
「ここは敵の関船を食い止めるために、浅いところに縄を仕掛けている。だから、大潮で満ち引きが大きいときには縄が海面に出てしまうんだ。それを隠すために、大潮の時期にはこの場所の縄は別の場所に移すんだ」
 本当はその場所には乱杭が打ち込まれているし、それは大潮でも海面に出ることはない。あえてその場所にヤケアトツムタケを誘導するために、網問はもっともらしい顔で説明を続ける。
「そういう場所は、他にもあるのか」
 別のヤケアトツムタケ忍者が訊く。
「もちろん」
 網問は頷く。「だけど、俺は兵庫水軍に入ったばかりだから、全部を知ってるわけじゃない」
「別の兵庫水軍のメンバーを落として来いとでもいうつもりか」
 苛立つような声が漏れる。
「そんなことないさ」
 確信に満ちた表情で網問は言い切る。「間切なら、兵庫水軍の海のことなら何でも知ってる!」
「どうやって、その間切とやらを我らの仲間にするというのだ」
「簡単なことさ」
 網問は肩をそびやかす。「間切は俺といちばん仲がよかったから、俺が誘えばきっと来てくれる」
「本当か?」
 胡散臭げな視線を浴びつつ、網問はなおも続ける。「ああもちろんさ! ウソだと思うなら、俺がおびき出してやるさ」
 それが網問の狙いだった。とにかく兵庫水軍と接点を作らなければと思った。そのためならば相手を信用させるようなことならなんでも言ってやるつもりだった。
 -あちこちの水軍を渡ってきた経験がこんなとこで役に立つとは思わなかったな…。
 自分を余所者としてしか見ない新たな人間関係に放り込まれるたびに、人畜無害を演じてきた。異なる言葉を話す自分に向けられる胡散臭げな視線をやりすごすために、必要な演技だった。いつしかそんなことばかり得意になって、自分が何者で、何のためにここにいるかも見失いかけていた。兵庫水軍にたどり着くまでは。
 だから演じることには自信があった。今の自分は、兵庫水軍から縁を切られ、裏切り者を手繰り寄せる役割である。
「まあ、お手並み拝見だな」
 どこまで信用したかは分からないが、ヤケアトツムタケ忍者の一人がもったいぶった口調で言う。
 -おっしゃ! これで兵庫水軍にアプローチできるぜ!

 

 

 

「えっと…これって…?」
 眼の前に据えられた文机に、網問が眼をぱちくりする。文机の上には、いかにも手紙を書けと言わんばかりに筆と紙が用意されている。
「間切とかいったな、お前の仲のよい仲間に手紙を書くのだ」
 上役らしいヤケアトツムタケ忍者が命じる。
「いや、俺が会いに行ったほうが…」
 予想外の展開に慌てて方向転換を図ろうとするが、上役は無視して続ける。
「仲がよいと申しておったであろう。であれば、手紙でおびき寄せるなど造作もないことではないのか?」
「ま、まあ、そりゃそうだけど…」
 自分が手紙を出せば、間違いなく間切は来てくれるだろう。だが、この状況ではそれはヤケアトツムタケに取り込まれてしまうことを意味していた。間切がそんなことにガマンできるだろうか。必ず大暴れして抵抗するだろう。そして言うだろう。網問、お前はなんでヤケアトツムタケなんかの仲間になりやがったんだ、と。
 -しまったなあ…。
 計画では、ヤケアトツムタケは、間切を仲間に引き込むために自分を兵庫水軍の海に連れていくはずだった。そうすれば、仲間たちがきっと助け出してくれるはずだった。だが、それは甘い見通しだったようである。いま、自分は屋敷の一室に押し込められて、手紙を書けと迫られている。
「え、えっと…」
 ここはひとまず時間稼ぎをするしかない。網問は苦しい言い訳を試みる。「俺、まだこっちの言葉の読み書きがニガテだから…」
「気にするな。書けぬと言うなら代筆させればいいだけのことだ」
 あっさりと男に返されて、慌てて付け加える。
「い、いや、俺の字じゃないと、だ、だれも信用なんかしないから…」
「だったらどうするというのだ」
 男の口調に苛立ちが混じる。
「俺が書けばまちがいなく信用される!」
 網問は言い切る。「だから、ちょっと時間をくれないか。俺、手紙書くのすごく時間かかるから」
「…よかろう」
 少し考えた男が頷く。「いずれにしてもお前はここから出られぬ。せいぜい心を込めて書くのだな」
 言い捨てて後ろ手でゆうゆうと歩み去る。
 -くっそ。その手には乗らないからな!
 手紙は自分が直接持っていかないと信用されないと言い張るつもりだった。だが、男の口ぶりから、網問を兵庫水軍の海に連れていくつもりはないようである。
 -ちょっと作戦甘かったかな…。
 自分なりに一生懸命考えた作戦のはずだったが、どうやらこの屋敷から抜け出すには、もう少し相手をだます必要があるようである。
 -でも、どうすれば…。
 このような局面に陥るのはさすがに初めての網問には、重すぎる課題だった。
 -いやでも、ここであきらめたら兵庫水軍に帰れなくなっちゃう。間切とも会えなくなる! かんがえろ! もっとかんがえて、ここから出る方法を見つけるんだ…!
 文机に頭を抱えて伏せる。と、そこへ「そんなに悩まなくてもいいですよ」と涼しげな声が降る。
「だれだっ!」
 はっとした網問が辺りにをきょろきょろと見回す。
「ここですよ」
 天井板が外れて、利吉の顔がのぞいた。
「利吉さん…なんでここに?」
 信じられない思いで天井を見上げながら網問は呟く。
「間切君に頼まれてね。この屋敷に君が閉じ込められているのではないかと」
「間切が!? どこにいるんですか?」
 やっぱり来てくれていた! という思いと早く会いたい! という思いがない交ぜになって声が弾む。
「間切君には兵庫水軍の海に戻ってもらった。君にはもっと早くコンタクトするつもりだったけど、ヤケアトツムタケ忍者の警戒が厳しくてね。なかなか屋敷に潜り込むチャンスをつかめなかった」
 陸酔いで、とは言いかねて、利吉は説明の方向を微妙にずらす。
「そうなんですか…」
 たちまちしょんぼりとする網問である。
「いま、ヤケアトツムタケは海のほうで何か作戦をやってるらしくて、忍者もそちらに動員されている。もう少しこの屋敷の警備が手薄になったら助けるから、それまで手紙作戦で時間を稼いでいてくれないか」
「はい!」
 素直にうなずいた網問は、天井板が戻されるのを見届けると、ふたたび文机の前に座る。
 -でもどうしよ。俺、字書くのマジでニガテだし、あいつらだませるような文章なんてもっとムリだし…しまった!
 再びハッとして顔を上げる。
 -利吉さんに、どんなふうに書けばいいか聞いとけばよかった…!

 

 

 

 

「…というわけで、網問君はヤケアトツムタケの家臣の屋敷に閉じ込められています」
 水軍館で報告する利吉を、一斉に重い吐息が囲む。
「親方! 兄ィたち! なに座ってるんですかっ!」
 ひとりいきり立って立ち上がる間切だった。「網問がいる場所がわかったんですよ? 助けに行かないと!」
「少し落ち着け」
 由良四郎が腕を組んだまま間切を睨み上げる。
「でも…!」
「その屋敷に俺たちが総攻撃をかけたとして、勝ち目があると思うか?」
 声を低める由良四郎だった。こういうときの由良四郎は独特の凄みを醸し出す。
「そういうこった」
 義丸が引き取る。「俺たちのフィールドは海だ。陸酔い持ちが束になってかかったところで、陸の敵に勝てるわけがない。それに、網問を人質に取られたら俺たちは手も足も出ない」
「だからって!」
「まあ聞け」
 鬼蜘蛛丸が声を上げる。「お前も見てきただろう。西の岬の向こうにヤケアトツムタケの軍船がいた。近いうちに俺たちに攻撃を仕掛けてくるつもりだろう。だが、それはチャンスでもある」
「どういうことですか?」
 航が訊く。
「連中が、網問をどう利用するかを考えてみろ」
 義丸が謎かけのように言う。
「どうって…」
「人質とか?」
 若い衆が首をひねりながらつぶやく。
「俺の予想では、連中は網問を水先に立てて来る。もちろん、俺たちが攻撃しようとしたときには人質としても使うつもりだろう」
「私もそう思います」
 利吉が頷く。「そのためにも、彼らは網問君を必ずあの屋敷から動かすはずです。私はこれから戻って見張りを続けます」
 そう言って立ち上がる利吉に、第三共栄丸が声をかける。
「頼んだぞ、利吉君…その間、俺たちはあの軍船を見張る。連中は必ず動く。お前たちも、見張りぬかるんじゃねえぞ」
「「はいっ!!」」
 部下たちも応えながら一斉に立ち上がる。

 

 

 

 -静かだな…。
 網問が監禁されている屋敷に戻った利吉は、すぐに異変に気付いた。
 -そもそも生活感のない屋敷だとは思っていたが…。
 表向きはヤケアトツムタケの家臣の屋敷ということになっていたが、それにしては時折屋敷から人気がまるきりなくなることもあり、料理人や洗濯女もいたりいなかったりしているようだった。
 -網問君も言っていたな。ときどき、いくら声を出しても人の気配が全然ないときがあったと。
 ということは、あるいは今、この人気のない屋敷のどこかに網問が閉じ込められているということであろう。
 -それなら手間が省けて好都合なんだけど。
 それでも一応、用心しながら屋敷に忍び込む。だが、利吉の予想は外れていた。
 網問はいなかった。屋敷のどこにも
 座敷牢にも、そのあとに連れていかれていた文机のある部屋にも。ほかのどの部屋にも。
 -やられた!
 網問は連れ去られていた。その行き先の候補がいくつか明滅したが、どことも定めかねてしばし立ちすくむ利吉だった。

 

 

 

「ここは…」
 ヤケアトツムタケ領内の海岸には近寄ることがなかったから、見知らぬ軍船が停泊する浦に連れてこられて網問はただ茫然とするだけである。
「乗れ」
 背後から小突かれて小舟に乗り、軍船に乗り移る。
 -連中、俺をこんなところに連れてきてどうするつもりだ? ヤケアトツムタケ領の海じゃ間切を呼び寄せることもできないのに…。
 間切に手紙を書くことを命じられて、どう書こうか考えあぐねて文机に突っ伏して眠ってしまったところをたたき起こされて、気がつくと軍船の停まる浦に連れてこられていた。
 -でも、俺をここに連れてくるってことは、連中、俺のことを信用したってことなのかも…。
 であれば、浦の様子や軍船の内部もしっかり目に焼き付けておかねばと、懸命に周囲の様子を記憶に焼き付ける。
「なにそんなところに突っ立ってる。こっちだ」
 ヤケアトツムタケ忍者の一人に声をかけられてハッとして振り返る。
「は、はい」
 慌ててついていった先には、船頭たちが集まった部屋があった。広げた地図を囲んでいる。
 -これは、兵庫水軍の海だ! コイツら、なに企んでいるんだ…?
「この地図に見覚えはあるな?」
 頭らしい男が網問を見据えて口を開く。
「あ、ああ…」
 それは、屋敷で罠の位置を説明させられた時にあった地図だった。自分が説明した罠の位置もすでに書きこまれている。
「すでに兵庫水軍攻撃の準備は進んでいる。我らの軍船の一部は兵庫水軍の浦の隣まで進軍している」
 -!
 後頭部を殴られたような衝撃を覚えて網問は言葉を失う。
「今こそこの地図が役立つ時だ。お前はこの地図に従って水先として一番船の先頭に立ってもらう」
 頭が淡々と命じる。
「わ、わかったよ…」
 かすれた声で答えるのが精一杯だった。

 

 


 兵庫水軍の水軍館に戻ったときには、すでに日は暮れていた。すぐに板敷きの広間に灯が並べられて評議が始まった。
「…というわけで、私が行ったときには網問君は連れ去られていました。どこにいるのかも分かりません」
 利吉が悄然と報告する。
「そうか」
 腕を組んだ兵庫第三共栄丸が難しい表情で部下たちを見回す。「お前ら、どう思う」
「連中の意図は変わんないと思いますがね」
 義丸が口を開く。「むしろ、網問を水先に立てて来るのはほぼ確実なんじゃないですか」
「ヤケアトツムタケはいくつか拠点を持っている。網問がどこに連れてかれたにせよ、ここに攻めてくることは間違いない」
 考えながら由良四郎が腕を組む。「それも、来るとすれば西の岬からだ。例の軍船とともにな」
「どこかの水軍と同盟を組んで、東の岬からも攻めかけてくる可能性はあるな」
 広げた地図に眼をやりながら、蜉蝣が顎に手を当てる。「だが、十中八九、網問は西の岬からの船に乗せられてるだろうな」
「だが、網問もこの浦の仕掛けや罠をぜんぶ知っているわけではない」
 鬼蜘蛛丸が指摘する。「とすると、網問が知らなかった仕掛けに引っかかった連中が、網問に危害を加えることにならないか?」
「その前に連中を叩きのめせばいい話だろ」
 疾風が言うと、仲間たちが大きく頷く。
「それしかないな」
「おう」
「…そろそろ攻撃も近いということだな」
 第三共栄丸が声を上げる。「よし、見張りの間切に加勢を出すぞ。疾風、義丸、重、行ってこい! 他の連中は迎撃準備だ。かかれ!」
「「はい!」」

 

 


 -動きがねえな…。
 そのころ、西の岬の向こうに停泊しているヤケアトツムタケの軍船を、ひとり小早に乗って見張っている間切は、退屈を持て余していた。
 -いつ俺たちに攻撃されるか分からないようなところにいるくせに、なに余裕こいてんだ、連中は…。
 鬼蜘蛛丸と偵察に来た後、ふたたび一人で漕ぎ出して見張ることにした間切だった。
 -連中が変な動きしたら、すぐに仲間に知らせて攻撃してやるのに。
 だが、今は昼間見かけたようなヤケアトツムタケ忍者の動きもなく、静まり返ったままである。
 -あ~あ、つまんねえな。
 静かな波にたゆたう小早の揺れに身を任せながらごろりと横になる。見上げた空には一面の星が広がっていた。
 -網問のやつ、いまごろどーしてんのかな…。
 ふいに後輩の顔が脳裏を過る。たった一日か二日のできごとなのに、もうずいぶん長いこと会っていないように思えた。
 -アイツ、寂しがってるかな…。
 いつも調子よくて元気いっぱいの後輩だったが、ふいに見せる寂しげな表情を間切は見逃さなかった。そして言ったのだ。「俺を頼れよ!」と。
 なぜそんなことを言ったのか分からない。兵庫水軍の中では若手の間切だったが、後輩は網問だけではない。だが、妙に気にかかったのだ。
 -そういや、遠い北の国から、いくつもの水軍を渡り歩いてきたって言ってたな…。
 まだあどけない少年のような表情を見せる網問だったが、ぽつぽつと語る話を聞くと、それは決して平坦な来歴ではなかった。
 -ここに来た時も、アイツ、数か月で出ていくようなこと言ってたな…。
 そう言い捨てた乾いた眼が無性に痛ましかった。水軍と言えば兵庫水軍しか知らない自分に比べて、どれだけつらい思いを重ねてきたのだろうか。
 -なあ。お前は兵庫水軍、好きになってくれたかな…。
 夜空に向かって語りかける。
 -お前がずっといたいって思えるために、俺はなにができる…?
 星空のきらめきがいっそう増したように見えた。
 -俺、もうお前のいない兵庫水軍なんて想像できないんだけど。
 今となっては、網問がいなかった頃の兵庫水軍がどうだったか、思い出すこともできない間切だった。すぐそばにいないというだけで、こらえきれないほどの不安と喪失感をもたらすほどの存在になっていた。

 

 

 

「ん?」
 ふいに浦のあたりが騒がしくなった気がして、間切は身を起こす。船べり隠れてそっとヤケアトツムタケの軍船の様子を探る。
 先ほどまで静まり返っていた軍船に、いつの間にか多くの人がひしめく気配がした。
 -なんだか騒がしいな…。
 もう少し近くで探ってみようかと思ったとき、背後から櫓をこぐ音が近づいてきた。慌てて振り返る。
「疾風の兄ィ! それに義兄ィに重も…」
 思わず声を上げる。
「静かにしろ」
 人差し指を唇に当てた疾風がしゃがみ込む。つられて間切も身体を伏せる。
「利吉さんから連絡があった。網問が、ヤケアトツムタケの屋敷からいなくなったってことだ。連中の動きが急になる可能性がある」
「つまり、いよいよ連中が動き出すってことだ」
 興奮を抑えきれないように重が声を弾ませる。
「そういうことだ。すぐに水軍館に戻るぞ。作戦会議だ」
「はいっ!」
 ヤケアトツムタケの動きには、網問が軍船に乗せられているかもしれないという情報も含まれていたが、それを伝えると間切は手に負えない動きをしそうに思えて伏せることにした疾風だった。

 

 


「夜が明けたら出撃だ」
 一晩中、まんじりともせず舷側に寄りかかって海を眺めていた網問に背後から近寄ってきたヤケアトツムタケ忍者がひとこと告げると立ち去る。
 -出撃、か…。
 追い詰められた思いで内心つぶやく網問だった。吹き抜ける風がまっすぐな髪を舞い上げる。
 眼の前には、別の軍船が大きな影となってそびえている。あわせて5~6隻の軍船が係留されていた。いまはどの船も準備を終えたらしく、船上には見回りらしい兵の姿があるきり静まり返っている。
 -だけど明日には…。
 帆を上げ、数百もの櫂がきしみ、兵たちの鬨の声をとどろかせながら一斉に進撃する。その先頭には、水先として自分が据えられているだろう。
 -どうしよう。こんなはずじゃなかったのに…!
 いますぐ海に飛び込んで、兵庫水軍に向けて泳ぎ出したい気分だった。だが、背後の物陰から自分を見張る影がいることにも気づいていた。
 -いやいや、落ち着くんだ。それに、ここで作戦を投げ出したらぜんぶ台無しになる。
 慌てて考えを転換させて、気持ちを落ち着かせる。
 

 

 

 夜が明けた。
「出航!」
 船頭の声とともに法螺貝が吹き鳴らされ、一斉に櫂が動き出す。
 -順風だ。
 空の一角を見上げながら考える。いつの間にか櫂の音が途切れ、帆が強い順風を受けて大きく膨らむ。まっすぐな髪が吹き乱される。船はかなりのスピードで進んでいた。
 -西の岬だ…あ! あんなところに軍船がいる!
 兵庫水軍の根拠地の西端の岬が見えてきた。と、その手前に停泊していた軍船が動き出して船団に合流する。
 -いつの間に…コイツら、攻撃のチャンスを見計らってたんだな!
 風は順風、潮流も兵庫水軍の浦への流れとなっている。スピードに乗って一気に攻め込むつもりなのだろう。
「そろそろお前の出番だな」
 気がつくと傍らにヤケアトツムタケ忍者の長らしい男が立っていた。
「…ああ」
 ためらいがちに答える。
「もう一度確認する。岬を越えたら丑寅(北東)よりちょっと寅(東北東)の方向に進むのだな?」
「ああ」
 その方向には、手前の海底に逆茂木が仕掛けられているはずだった。喫水の深い軍船では間違いなく引っかかるに違いない。兵庫水軍から見れば、沖合で敵の軍船が立ち往生することになる。それだけ、防御のための行動をとる時間も稼げるだろう。自分は裏切り者として殺されるかもしれないし、海に飛び込んで逃げようとしても、火縄や弓矢で射殺されるかもしれなかったが。
 どちらでもいいと思っていた。ようやく自分の居場所だと思えた兵庫水軍を守るためなら。一晩考えて到達した網問の結論だった。
「手引(帆扱い役)は丑寅やや寅方向!」
 船頭の声に、風をはらんだ帆が軋みながら方向を変える。
「攻撃準備!」
 船上の動きがあわただしくなる。火薬のにおいが漂い、火器を抱えた兵たちが駆け回る。
 -あと少し…。
 あと少しで、船底に衝撃が走るはずである。その時が、自分の最期になる。
 -間切…会いたかったな。
 網問の立つ舳先にいっそう強く風が吹き付ける。吹き乱されて顔にかかった髪を払おうとしたとき、ふと波間に人の頭がのぞいていることに気づいた。
 -重!
 思わず凝視してしまいそうになった慌てて顔をそらせる。そしてそっと視界の片隅に重の姿を捉える。
 やっと気づいたか、というように重は小さく頷くと、海面から腕を出して丑(北北東)の方角を指す。
 -丑の方向? そうか、迎撃態勢はできているということか!
 丑の方向は浦の奥に乱杭が仕掛けられている。ヤケアトツムタケの軍船を十分奥まで誘い込んでから一気に叩く準備ができていると瞬時に察した網問は声を上げる。
「方向転換! 丑の方角!」
「丑だと!?」
 手引が血相を変えて駆け寄る。「どういうことだ!」
「このまま進むと兵庫水軍の迎撃を正面から受けることになる。見ろ」
 指さした方向には兵庫水軍の安宅船が停まっている。「あの安宅船の後ろに小早(小舟)が控えている。だから丑の方向から回って安宅船の裏を衝く」
「だが…」
 ヤケアトツムタケ忍者の長が言いかけたとき、安宅船の後ろ、寅(東北東)の方角から兵庫水軍の小早がいくつも現れる。そして鬨の声を上げる男たちを先頭にみるみる漕ぎ寄せてくる。
「くそ! 待ち構えていやがったか!」
「気をつけろ! 連中、飛び道具を使ってくるぞ!」
 船頭や参謀が動転した声を上げる。その間に船足の速い小早はみるみる近づいてきて、舳先に立った兵庫水軍の男たちが投げ焙烙を振り回しては投げ込んでいく。
「退避! 丑方向に面舵一杯!」
 慌てて方向転換を指示するが、強風と早い潮流でなかなか方向転換がうまくいかない。ようやく寅の方角へと軍船が進み始めた次の瞬間、がくん、と船底から衝撃が突き上げて全員が身を投げ出される。
「いてて…」
「どういうことだ!」
 よろよろと立ち上がりながらヤケアトツムタケ忍者の長が怒鳴る。だが、舳先から怒鳴りつける相手の姿が消えていた。
「さては海に投げ出されたか」
 慌てて舷側に寄って海面を覗き込む。だが、そこに見たのは信じられない光景だった。
「悪いが網問の辞表はお頭が破り捨てちまったからよ~ォ!」
 一隻の小早の上にずぶ濡れの網問が引き上げられていた。そして、網問を背後にかばうように須磨留を肩に担いで立ちはだかった義丸が声を張り上げてからかう。
「ふ、ふざけるなっ!」
 舷側に手をかけた長が怒鳴り上げる。そして背後を振り返って兵たちに命じる。「あの小早を狙え! アイツら全員射殺してしまえ!」
「「は!」」
 弓矢や火縄を手にした兵たちが慌てて舷側に駆け寄る。と、
「俺たちもタダで網問を返してもらおうなんざ思ってねえぜ。ちゃんとお代は支払ってやるよォ!」
 なおも軍船を見上げながら不敵に笑う義丸が左右に展開する小早に向かって声を上げる。「おう、網問が世話になった礼を、たっぷり差し上げようぜ!」
「おう!」
「世話になった礼だ!」
「受け取れっ!」
 左右の小早の上で控えていた航や白南風丸や間切たちが一斉に投げ焙烙を放ち始める。
「や、やめろっ!」
「退避だ! 退避しろっ!」
 パニックになったヤケアトツムタケ忍者の長や参謀たちが叫ぶが、至近距離まで漕ぎ寄せる小早から放たれる投げ焙烙は正確に船内に着弾しては爆発する。
「な、何をしておる! 早く消すのだ!」
 動転した手引の声に、水夫たちが筵や桶を持って駆け寄るが、あちこちで燃え盛る炎に立ち往生する。
「ええい、何をしておる! 砂を早く持ってくるのだっ!」
 投げ焙烙の燃料は油なので、水などかけては逆効果である。戦船には当然の備えとして砂が積んであった。
「そ、そうでした!」
「いますぐ!」
 ハッとしたように水夫たちが船底へと駆けていく。だが、次の瞬間、すさまじい爆発音と爆風に船が大きく傾いて、全員が再び身体を投げ出された。
「今度は何事だ!」
 身を起こした船頭が眼にしたのはさらに信じがたい光景だった。舷側が接触するほど近寄っていた僚船の屋形が原型をとどめないまでに吹っ飛び、帆がめらめらと燃えていた。
「何があったというのだ!」
「おうい、助けてくれぇ!」
 船頭が叫んでいる間にも僚船から水夫や忍たちが次々と乗り移ってくる。
「連中の投げ焙烙が火薬樽に命中したんだ!」
「もうあの船はおしまいだ!」
「この船もとっととこの浦から逃げるんだ! じゃないと連中、まだまだ投げ込んでくるぞ!」
 口々に叫びながら水夫や兵たちが船内をばたばたと走り回る。その間にもうなりを上げて飛んでくる投げ焙烙があちらこちらに着弾しては炎を上げ、悲鳴が上がる。そして、海底の乱杭にかかって動けなくなった軍船がつぎつぎと焼け落ちていく。

 

 


「網問!」
「待ってたぞ!」
 岸辺に着いた小早から上陸した網問に仲間たちが駆け寄る。
「網問! ごめん!」
 深く頭を垂れたのは重である。「俺があんなつまんないことでケンカしなきゃ、網問があんなことにならずに済んだのに…」
「俺こそ、ごめん!」
 網問が慌てて頭を下げる。「カッとなって勝手に飛び出したりして…ホントは目玉焼きもゆで卵もどっちも大好きなのに…」
「あ、俺も」
 ひょいと頭を上げた重が照れ臭そうにがしがしと頭を掻く。
「だよね! 重も俺も、食いものの好みおんなじだもんな!」
 つられるように頭を上げた網問がにかっと笑う。
「ああ!…だけどさ」
 急に重がふくれっ面になる。「網問、俺に気づくの遅すぎ! ヤケアトツムタケの連中に気づかれないように時々潜んなきゃいけなかったし、潮が早かったから足がつるかと思うほどだったんだからな…!」
「え、そうだったの?…ごめん」
 弾かれたような表情になる網問だった。
「まあ、あのくらいで足がつるようではまだまだだな」
 腕を組んで見守っていた舳丸にぼそっと突っ込まれて、笑い声が上がる。
「そんなぁ…俺、あんなに頑張ったのに~」
 情けない声を上げる重に、笑い声が高まる。

 

 

 

「おい、間切! なにそんなとこに突っ立てんだよ」
 少し離れたところに立っていた間切が、航に背を押されて二、三歩足を進める。
「お、おう」
「間切…」
 間切に向き直った網問が呼びかける。「利吉さんに聞いたよ。俺が閉じ込められてた屋敷まで来てくれてたって…俺、それ聞いてすっごいうれしかったんだ…俺、ひとりじゃないって…」
 言いながら、ふいに熱いものがこみあげてきて声が濁る。苦労して笑いかけながら、涙が伝うのが止められなかった。「だから…俺…」
「馬鹿野郎」
 近寄った間切が、がっしと肩を組む。「俺たちが、お前をひとりにするわけねえだろ…!」
「そうだそうだ!」
「俺たち、結束の固い兵庫水軍なんだぜ?」
 航や重たちもぶつかるように肩を寄せてくる。
「だよね!」
 仲間たちにもみくちゃにされながら、網問はひときわはしゃいだ声を上げる。

 

 

 


「網問のやつ、ヤケアトツムタケの軍船を逆茂木に突入させるつもりだったな…」
 騒がしい若い衆たちを眺めやりながら、蜉蝣がぼそりと呟く。
「…だな」
 隣に立つ疾風が小さく頷く。
「あいつ、逃げるつもりもなかったんだろうな」
「かもな」
 はあっ、と大きくため息をついた疾風ががしがしと頭を掻く。「まだ十代の小僧っ子なのによ…」
「それだけ、網問にとってはここが大事な場所になった、ということなんだろうな」
 やってきた由良四郎が腕を組む。
「大事な場所、か…そうか」
 自分たちの知らない、遠い北の国からやってきた少年が、ようやくたどり着いた居場所、という事実に、三人はしばし黙り込む。自分の命を投げ出しても守ろうとした思いの強さに、歴戦の海の男である三人も圧されるしかなかった。
「…てことは、俺たちがしっかりした錨地にならないといけないってことだな」
 ようやく口を開いた蜉蝣が顔を上げる。晴れ渡った空の奥に、アホウドリが飛び去る。

 

 

<FIN>

 

 

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