もののもどり(2)

 

 片桐屋での立ち回りは、あっという間に店中に広まった。留三郎は何事もなかったように仕えていたし、鈴もいつもと同じように振る舞っていたが、手代や女中たちの噂話は嫌でも耳に届いた。そして、そんな噂話に穏やかならぬ思いを抑えきれない人物がいた。

「話がある」
 鈴が自室に引き取った後は、留三郎には仕事はない。自分にあてがわれた部屋に戻ろうと座敷を出たところで、手代の喜平次がぬっと顔を出した。
「なんだ」
「こっちだ」
 鋭い眼で周囲をちらと見やってから、喜平次は留三郎の胸を押して座敷に押し戻した。
「座れ」
「だから、何の話だ」
 どっかと胡坐をかきながら、留三郎は相手を睨み据えた。
「少しはわきまえろ」
 押し殺した声で短く放たれた言葉ににわかに意味を見出しかねて、言葉に詰まる。
「…どういう、意味だ」
「少しばっかり旦那様の受けがいいからといって図に乗るなということだ」
 -旦那様…鈴のことか…。
 相手の血走った目に、却って冷静になっている自分がいた。
 -つまり、コイツは鈴を好いてるということか…。
 それならば何も言うことはなかった。こちらとしては、期間限定で用心棒を務めているだけだ。その相手が誰を好いていようが、誰に好かれていようが関係ないことである。だからぶっきらぼうに言い切る。
「お前の知ったことか」
 胸倉をつかむ喜平次の手を振り払うと、留三郎は座敷を後にした。

 


 夕刻になると、留三郎はいつも自室にあてがわれた部屋の前庭に盥を据えて行水をした。忍とは、いつも身ぎれいにしているよう指導されていた。学園では湯に入ることができたが、いまは用心棒という立場上、町の湯屋(風呂屋)に行くことははばかられた。もし自分がのんびり湯につかっている間に鈴の身に何かあれば、その責任は自分が負うことになる。
 -ま、寒い季節でなくてよかった。
 髷を解くと、頭から水を浴びる。ばしゃっと冷たい水が肌を伝う感覚も心地よい陽気になっていた。

数羽の烏の声に顔を上げると、夕暮れの残照が残る空に宵の明星が輝いていた。台所からは夕食のうまそうな匂いが漂ってくる。夕食前に用事を片づけてしまおうと足早に廊下を伝う足音があちこちから響く。
 -あれは…?
 薄暗さを増した庭を仕切る透垣の向こうからこそこそと話す声が聞こえる。屋敷に仕える女たちである。「旦那様のお気に入り」と評判の立っている留三郎の行水姿を垣間見ようと集まっているのだ。

 -また来ていやがる。
 留三郎が行水をしているのは、広大な千本木屋の屋敷の中庭だったから、そこここを生垣や透垣で仕切ってあるとはいえどこからも丸見えに等しかった。学園の風呂場とはちがったずいぶん開放的な雰囲気だったが、男ばかりの寮生活で肌をさらすことに無頓着になっている留三郎は、気にせず行水を続ける。自分の身体をあれこれ品評している声が耳に届かないこともなかったが、あっさりと聞き流して無心に身体を洗う。
「今日の仕事は終わりかね」
 不意に声をかけられて、留三郎は背中をこする手を止めて顔を上げた。廊下には番頭の内藤利助がいた。
「これは、番頭殿」
 裸のままだったが、ともかく片膝をついて頭を下げる。
「いや、行水中、邪魔して済まなかった。あまりに気持ちよさそうだったからね」
 利助の声は高くもなく低くもなく、あえていえば何の印象も残さない声である。きわめて忍に向いた無個性な声で去り際に「あとで、私の部屋に来てくれないかね」と言い残すと、すたすたと歩み去る。その後ろを、山のような書類を抱えた手代が続く。

 


 -番頭殿が、俺に何の用だというのだ…。
 行水を済ませ、髷を結いなおした留三郎は、利助の部屋へと向かっていた。
 そもそも苗字を持つ侍身分の利助が、なぜ土倉の番頭をつとめているかが留三郎には謎だった。さる武家の庶子で、借金のかたに奉公に出されたのだろうというのが使用人たちのもっぱらの噂だったが。
「番頭殿。食満留三郎です」
 部屋の前で声をかける。
「ああ、入りなさい」
「失礼します」
 襖をあけた留三郎が眼にしたものは、膳を前に杯を傾ける利助と、その前に用意されたもうひとつの膳だった。
「食満君の膳も用意した。今日はゆっくり話でもしようかと思ってね」
「は、はあ…」
 何の魂胆だろうと訝りながらも膳の前に座る。控えた女中が杯を満たす。
「それにしても、女どもに垣間見られながらも平気で行水とは、なかなかの剛の者だね」
 膳の膾に箸をつけながら、利助は淡々と言う。
「まあ、それほどでも」
 曖昧に返事しながら、留三郎は汁をすする。
「忍術学園では、女の前で裸になるような修行もしているということかね」
 あまりに的外れな問いに、思わず汁を吹いてしまいそうになる。げほげほと咳き込む背を、女中がさする。
「い、いや…そういうわけでは」
「そうかね」
 ぐびり、と杯をあけた利助は泰然と続ける。
「まあ、君は面食いの旦那様に気に入られるような男前だし、いい身体をしている。剣の腕も立つそうだね。片桐屋さんでの件は聞いたよ。喜平次が気をもむのももっともかも知れぬな」
 先日、喜平次に部屋に連れ込まれたことを知っているのだろうか…唐突に話を変える利助に振り回されるような感覚がして、留三郎は箸を置いて居ずまいを正した。
「して、お話の向きは」
「さすが、忍術学園の最上級生だけありますな…お分かりなら話は早い」
 さして驚いた様子もなく、利助は膳を傍らに寄せると、懐から数枚の紙を取り出した。
「これです」
「?」
 留三郎も膳を側へ寄せて、紙を受け取る。そこにはいくつかの地名が記されていた。
「これは?」
「代官請負です。聞いたことは?」
「…いえ」
 眼の前の中年男は、千本木屋に来て初めて会ったときから、底知れぬものを感じていた。おそらく、この店のあらゆる秘密を知り尽くしていて、だからこそ番頭を務めあげているのだろう。この男の内部に無数に仕舞いこまれた秘密のひとつが、その代官請負なるものなのだろうか、と留三郎はぼんやりと考えた。
「代官請負とは、早く言えば荘園の年貢の取立役です。自力では荘園から年貢を取り立てることができなくなった者たちが、取り立ての請負者を募集している…だが、このリストは、ただの代官請負の対象地ではない」
「といいますと」
「これらの荘園の領主は、いずれも金に困っている。そして、すでに来年の年貢をかたに金を借りたいと言ってきている。これは、そういった来納(らいのう)のリストです。もう少し正確に言えば、来納の候補リストと言ってもいい。このリストに記されている荘園の領主に金を貸すということは、この荘園からの来年の年貢により弁済されるということになる。つまり、自力で取り立てる必要があるということだ」
「ということは…?」
 まだ、そのようなリストを自分に示されている理由が分からない留三郎は訊く。
「君は忍術学園の生徒だ。諸国の事情について耳にする機会も多いでしょう。だから、君の知っている範囲でいい、このリストに記された土地についての情報を教えてほしい。私が君に来てもらったのは、それが理由です」
「…」
 話の内容はまだ半ばも理解できていなかったが、とりあえずこのリストに記された土地についての評判を知りたがっているらしいことは分かった留三郎は、再び紙片に眼を戻す。
 -知っている地名が多いな。
 リストを眼にした最初の感想だった。
「摂津のこの庄のあたりでは、街道に勝手に関が作られて商人たちが困っているそうです」
 用具委員会で用具の修繕をしていた時にしんべヱが語っていたのを思い出す。その関のせいで堺の実家から届けられるお菓子の到着が遅くなったとしきりに喜三太を相手にこぼしていた。
 -この村も知っている…。
「山城のこの村では、隣村との水争いの裁定に不満がある村人たちが代官を追い払ったと聞いています」
 それは、同室の伊作が、京に出張に行っていた新野から聞いた話を話して聞かせたものだった。
「大和のこの庄では、領主の段銭(臨時課税)が重すぎると領民が逃散寸前までいったそうです」
 それは、きり丸の周旋で警備のバイトに行った文次郎や小平太たちから聞いた話だった。
「ほう。さすがは忍者の学校に通っているだけある。情報を持っていますな」
「いえ…」
 たまたま耳にしていた話に登場していた土地があっただけの話だったが、利助は感心したように薄い顎鬚に手をやった。
「情報をいただいたお礼に、私からもひとつ話しておこうか」
 紙片を懐に戻した利助は、いつの間にか膳を自分の前に据えて、杯を手にしていた。
「はい」
「近いうちに、旦那様は君に身体を許されるだろう。そのときは、遠慮なくいただいておくことだ…なかなかに景味ありと聞くからな」
「!」
 無表情な声が発した思いがけない言葉に、留三郎は思わず手にした箸を取り落しそうになる。
 -いま、この男は何を言ったのだ!? 自分の主人を、まるで遊女を売る淫売宿の亭主のように…!
「旦那様が許された時には、悪いことは言わないから断らないことだ。それほど旦那様のプライドを傷つけることはないからな…」
 留三郎の反応も眼に入らないように続けてから、利助はおもむろに杯を乾した。
「まあ、喜平次はあれやこれや言ってくるだろうが、気にしないことだ…あれはあれで旦那様を好いてはいるが、しょせん実らぬ想いよ」
 呆然と自分を見つめる青年の視線を完全に無視して、利助は膳の食事に再び箸をつける。ひとつだけ、留三郎に告げなかった事実を胸の中で反芻しながら。
 -旦那様が身体を許された相手は、もれなく馘首されている…お前も覚悟しておくことだ。
 だが、身近で鈴を見続けてきた利助にも、その理由はうかがい知ることができない。小さく咀嚼しながら、番頭はいつしか眼の前に座り込む青年の存在も忘れたように、店のマネジメントのあれこれについて考えを巡らせ始めていた。

 


「しかし、お返しいただけないとなると、このまま質流れになってしまいますけどねぇ」
 今日も座敷では、鈴の涼しげな声が響く。
「そこを何とかできないかと、頼みに来ている」
 眼の前にいる相手は、身なりも恰幅も良いいかにも大店の主人然とした男である。だが、いまはその威厳も虚勢にしか見えない。油でなでつけて整えられた髪の生え際には汗がにじんでいる。
「とても物事を頼みに来た態度には見えませんねぇ」
 あっさりと言い捨てる声に、男の肩が怒りでびくりと震える。くっと上げた視線が鈴を射る。
「く…こんどの公方様の代替わりの御徳政でぜんぶ取り返してやるからそのつもりでいろ…!」
「御徳政、ね」
 明らかに見下した口調で、鈴は扇で顔を覆う。
「そう首尾よくいきますかねぇ」
「な、なんだと」
 妙に明確に言い切る鈴の口調に、相手は動揺したようである。
 -負けだな。
 鈴の傍らに控えた留三郎は、内心でつぶやく。もはや鈴の貫録勝ちは明らかだった。

 

 

「今日も飲むのか」
「飲もうが飲むまいが私の勝手だ」
 その夜も、鈴は形ばかり膳に箸をつけただけで、すぐに杯を傾け始めた。
「そんな飲みかたは良くないと言ったはずだ」
「誰が雇い主か考えろと言ったはずだ」
 ぶっきらぼうに返しながらも、そんなやり取りを楽しんでいるようにも見える。
「だが…!」
 留三郎には、そんな反応を観察するほどの余裕はない。ただ気にかかっていたことを言わなければという思いで一杯になっている。
 -鈴は、たしかにこの家の主人なのだろうが、同時にこの家や商売を取り囲むシステムの奴隷だ。人並みの娘の楽しみも知らずにカネを巡る切った張ったの世界にいるストレスが、こんな飲みかたにつながっているんだ…。
 それをどう伝えるべきか。忍術学園での六年間の修行に、そのような手段は含まれていなかった。自分の無力を突き付けられたようで留三郎は唇をかむ。
「なんだい。今度は商売をやめろとでも説教するつもりかい」
 ぐにゃりと脇息にもたれて杯をあけると、すわった眼で留三郎を見る。
「そうすることが必要なんじゃないかと思っている。俺は、こんな商売で身を切り売りするようなマネはしてほしくないし、するべきでもないと思う」
「なにを分かったように…」
 ふたたび杯を干した鈴がせせら笑う。
「…確かに俺には、商売の経験はない。まして土倉の何たるかなど分かりようもない。だが、俺にも分かることがある」
 思いつめた表情で留三郎は鈴に向き合う。
「本当は、商いなど、土倉などやりたくないんじゃないのか?」
 数日前にも同じようなことを感じたことを留三郎は思い出していた。あの飲まれるような飲みかたをする娘が哀れでならなかった。たまたま土倉を継いでしまったばかりに、そして外の世界を知らないばかりに、商いの道へ自分を駆り立てていくことしか知らないような娘が哀れだった。 
「何を言う…」
 ぶっきらぼうに吐き捨てて杯を口に運ぼうとする手を、留三郎の手が押しとどめる。なみなみと注がれた酒がこぼれる。酌をしていた女中がぎょっとした目線をあげる。
「聞け」
 気がつくと、掌が鈴の肩を捉えていた。とろんとした眼がほんのわずか留三郎の眼にとどまったが、すぐに上滑りするように通り過ぎる。肩を捉えられても些かも動じる風もない娘には、自分の言葉など受け入れる余地はないのかもしれない。それでも留三郎は続けずにはいられなかった。
「お前は、本当は心のきれいな女人なんだ…たまたま土倉の世界しか知らないから、そんな態度をしているだけなんだ…お前は本当はこんな商売などやりたくないはずだ。もっと自分に正直になれよ…!」
「…うるさいよ」
 けだるそうに視線をさまよわせたまま鈴は立ちあがる。ぐらりと揺れる上体を女中が慌てて支える。
「…こんど説教じみたこと言ったらクビだから、そのつもりでいな」
 振り返りざまに言い捨てると、身体を支えられたまま鈴はよたよたと歩み去った。
「…わかった」
 低く呟いた留三郎は杯をあける。
 一方で思うのだった。
 -あれだけ言ってしまったのに、今回もクビにならなかった…俺の言葉が少しは通じているということなのか…?
 少なくとも、前回のような峻拒がなかったことは確かだった。それは、希望を持っていいことなのだろうか。

 


「蔵に行くからついて来な」
 翌朝、最初の客が帰った後、帳面への書き付けを終えた鈴が立ちあがりざまに命じた。
「お、おう」
 傍らに控えていた留三郎が慌てて立ちあがる。その間に鈴はすたすたと座敷をあとに歩き始めている。
「灯りを持ってきな」
 言い捨てて歩み去る声に、留三郎は急いで取りに走る。
「蔵に入るのは初めてだったね」
 灯りを手にした留三郎が駆けつけると、鈴はおもむろに懐から鍵を取り出した。
 がちゃり、と大仰な音がして錠前が開くと、鈴は先に立って中に入っていく。灯りを持った留三郎があとに続く。中には重く淀んだ臭いがたちこめている。
「扉を閉めな」
 鈴が命令する。
「大丈夫、なのか…」
 手元の灯と、高いところにある明かり取りの窓があるとはいえ、蔵の中は暗い。闘う度胸には自信のある留三郎だったが、得体のしれないものが潜んでいそうな暗がりにいるのは心地のいいものではなかった。
「なんだい、暗いのが怖いのかい」
 気持ちを見透かしたように、鈴が揶揄する。
「そんなことはない」
 否定はしたが、蔵の中の重苦しい空気は、なにか情念を伴って皮膚にまとわりついてくるようで、留三郎はかすかに怖気をふるった。
「まあいいさ。この前、あんたは聞いたよね。私が心安らぐことはないのかって。私は、ここにいるといちばん心が安らぐのさ」
 暗さに眼が徐々に慣れてくるにつれて、灯の届かないところにあるものも見えてくるようになった。蔵の入り口近くにずっしりと積み上げてあるのは米俵である。
「なんだこれは…米じゃないか」
「そう、この前話しただろ? 大口の決済には米や金、銀を使ってるって。金銀も、蔵の奥に掘らせた地下室にしまっている。この蔵こそが私と千本木屋のすべてさ」
「だが、あくまで借銭のかたなのだろう。いずれは本来の持ち主に戻るべきものではないのか」
 つい思ったままを、留三郎が口にする。それはあまりに当たり前な考えで、またも鈴に嗤われるのではないか…と思いながら。
「…ここにもいたよ。古い考えの持ち主がね」
 鋭い舌打ちが響いた。
「古い考え…?」
「そういう考えの連中が徳政だなんだといって、借銭をチャラにしようとする…ほんとうに胸糞の悪い」
 吐き捨てるような語気に、留三郎は却って戸惑う。
 それが土地であろうが金品であろうが、ものは本来の持ち主のもとに返っていくものであり、このような土倉の蔵のなかに積み上げられているべきものではない。そう素朴に留三郎は考える。それはまた、留三郎だけではない、一般的な考え方だった。
 -それなのに、ここでは年貢に対する権利が代官請負だの来納だのと商品のように売り買いされているし、ものは当たり前のように所有者が変わるものとされている…。
 この店に来てから感じていた違和感がありありと蘇る。
 -そうか! この店は、土倉の世界は、俺たちが当たり前と思っているのとはぜんぜん違う意識で生きている世界なんだ! だから、あんなに居心地が悪い思いがしたんだ…!
 初めて見る世界への違和感を改めて感じる留三郎だった。
「だったら証文なんて鐚(びた)一文の価値もない、ただの紙切れってことじゃないか」
「だが…」
 たしかに借銭の証文のかたに米や銭や金銀が土倉の蔵に納まる。しかし、それは長い目で見れば一時的な話で、いずれは本来の持ち主のもとに戻るものでもある。そんな当然の公理を改めて説明できる言葉を思いつくことができずに、留三郎は口ごもる。
「だが、なんだい?」
「…ここにある米も銭や金銀も、今はたまたまここにあるだけじゃないのか? だから…」
 相手にしているのは黙っていても思いは通じる、というような種類の女ではないことは分かってきた留三郎は、苦労しながら説明を試みる。
「…」
 腕を組んだ鈴が、黙って続きを促す。
「…ものには本来の持ち主というものが必ずあって、いずれは持ち主の手元に必ず戻っていくものではないのか…?」
「それが古いっていうんだよ」
 凛とした声が蔵の中に響いて、留三郎は自分のつたない説明がにべもなく斬り捨てられたことを思い知らされた。
「ここにあるものは私のものだ。私が持っているものは私のもの。私が持っていないものは、他の誰かのもの。たったそれだけの話じゃないか」
「!」
 妙に明晰に、鈴の言葉が胸に響いた。
「世の中ってのは、単純明快にできているんだよ。なのに、頭の中に脳ミソの代わりに泥でも詰まってるようなバカどもが、ものには本来の持ち主があって他人の手に渡ってもいずれは…なんて訳わからない理屈をこねくり回して、自分でも説明できないほど分かりにくくしている。だけど土地だって物だって、最初は誰のものでもなかったんだよ。誰かが自分のものだと言いだして、いざ手放さないといけなくなったときに悔し紛れにいずれは自分に帰るべきものだなんぞと言いだしたからややこしくなっただけでね」
「だが…」
 それは当然のこととして、自分たちの父祖、はるか昔から知られてきた、いわば太陽が東から昇るのとおなじような理屈ではないか、という考えが、留三郎には残っている。
「ものが本来の持ち主に必ず戻るものだとしたら、売り買いはどう説明するのかい」
 思いがけない問いかけに、留三郎は口ごもる。
「売り買いだって、貸し借りだって、約束事で成り立っている。手形決済も為替(かわし)の取引も同じさ。それなのに、もののもどりなんてものが認められたら、信用経済は成り立たないんだよ。簡単なことじゃないか…それがあんたみたいなわからないでくの坊が世の中にはうじゃうじゃいて、都合のいいときだけ徳政だなんて言いだすんだから片腹痛いね、まったく…!」
 いまいましげに鈴は吐き捨てる。
「だが、ここにあるものは、銭が返されれば元の持ち主に戻るべきものなのだろう?」
「もちろんそうさ」
 勝ち誇ったように鈴は胸をそらして続ける。
「…ま、戻る見込みはないけどね」
「どういうことだ」
「ここにある米は…」
 鈴は積み上げられた米俵を見上げる。つられて留三郎も視線を上げた。
「三つの村の惣借り(惣としての借金)のかたに入ったもんだが、丸一年返済が遅れて残高が惣借りの倍になっている。もう返すのはムリだろうね。そこにある屏風はどっかの貧乏貴族が置いていったが、所領の徴税の証文を全部うちや他の土倉に入れてるから、もう取り戻しようがない。ほかにもそんな証文が山ほどある。うちではそんな所領の代官請もやっている。これがまたけっこう難しいんだよ。借銭が所領の上がりと見合うかをきっちり計算してからじゃないと、おちおち引き受けてられないからね」
「…前に、聞いたよな。そんなことが幸せなのかと」
 押し殺した声で留三郎は訊く。
「答えたはずだよ。それが私の生きる世界だと」
 細められた眼が、怒りでぎらりと光る。妖刀のような禍々しさに少しだけ怖気をおぼえながらも、あえて留三郎は声を上げる。
「それがお前の幸せとは思えないと言ったはずだ」
「今度そんなことを言ったらクビだと言ったはずだ」
 言いながら留三郎の胸倉を掴む。
「クビになろうが構わない。どっちにしろ休暇中のバイトだ」
 されるがままになりながら留三郎は答える。
「その代わり、契約期間中は私のものだ」
 低く吐き捨てた鈴が、突然掴んでいた胸倉を押し開いたので、留三郎は手にしていた灯を取り落しそうになった。
「お、おい…なにをする」
「バカみたいにいろいろ隠しこんでいやがる」
 白く細い指先が胸元から入り込んで、肩から着物を落とそうとする。懐の手裏剣や苦無が触れ合って音を立てる。
「用心棒が丸腰でつとまるか」
「だが、今はジャマだ」
 指先が苛立たしげに袴の紐を解こうとする。
「ま、待て待て、自分で脱ぐ」
 うろたえながら傍らの長櫃の上に灯を置くと、留三郎は袴の紐を解き始めた。
 -何をしようというのだ。
 一般的に、こういう状況で服を脱ぐとは交わることを意味していたが、相手は鈴である。見えているものも考えていることも、自分とはまったく違っているのだ。
 -俺を裸にして、打ち据えるつもりか。あるいは…。
 もっと嗜虐的な趣味をもっているのかも知れなかった。
 -まいったな…。
 ぼんやりした灯りがあるきりの暗がりではあっても、きまり悪いことには変わりなかった。これから何が起こるか分からないにもかかわらず、留三郎の男の器官は、すでに反応していたのだ。
「これで、いいか」
 懐にしまいこんだ忍器でずっしりと重い着物を長櫃に掛けると、留三郎は鈴に向かい合った。
「まだだね」
「まだって…」
 軽く言い放たれた声に、全身がかっと熱くなった。速くなった鼓動が脳天まで響き渡る。だが、腰に手を当てたまま、鈴は冷たい眼で留三郎を見るばかりである。
「…わかった」
 低く呟くと、鈴の眼をまっすぐ捉えたまま、ゆっくりと褌を解く。
 

 

 一糸まとわぬ姿で、冷たい眼の相手と対峙する。
「…」
 鈴の表情は変わらなかった。その視線が動くこともなかった。
 -どこを見ているのだ。
 自分の行水姿を垣間見る女たちのような下世話な視線ではない、あえて言えば自分の全身を透視しているような視線だった。
 -俺は、どうすればいいのだ。
 自分がひどく無力な子どもになってしまったようにおぼえて、留三郎は両の拳を強く握る。
「…」
 身じろぎもせず向き合う。しんと静まり返った蔵の中で、ぽつりと置かれた灯がちりちりと芯を燃やす音を立てているだけである。留三郎はただ、こわばった顔で女の前に立ちはだかっていた。相手の視線にさらされた男自身は、今やますます屹立して、自分の鼓動をそのままうつすように小さくうごめいていた。その鼓動は、早鐘のように全身に轟いていた。
 -とにかくこの状況を、何とかしてくれ…!
 だが、自分に主導権はなかった。冷たい眼の相手が口を開くまで、どうしようもない状況のまま立っているしかないのだ。

 

 

 -この男は、いったい何なのだ…。
 苛立ちに近い感覚で、鈴は相手を見据えている。
 -なぜ、私に手を出さない。
 金に飽かせて用心棒を雇って、気に入った相手と交わることも、もはや鈴にとっては惰性となっていた。そして、このように裸に剥いた相手は、もれなくその手を自分に伸ばし、襟足をくすぐり耳元でなにやら囁きながら、空いた手でするすると自分の帯を解き始めるのだった。
 -男のすることなんて、みな同じ。女が望むことも…。
 改めて、眼の前にそびえる彫像のような身体に眼を向ける。やや細いようにも見える締まった身体と、不釣り合いに筋肉がついた腕と、浅黒い精悍な顔立ちに浮かぶ戸惑い問いかけるような表情。ざらりとした冷たい土間を踏みしめる両脚の間にあるものだけが、ほかの男たちと同じ動きを見せていた。
 -この男にとって、私は手を出すにも値しない女ということか…?
 そういえばこの男は、今まで雇ったどの用心棒とも違っていた。面と向かって自分のビジネスを否定した者も、自分が幸せなのかと訊いた者も、これまで一人として現れたことはなかった。そんな男に、自分はまともに答えたことはなかった。
 -だが、愛想を尽かすのはこの男ではない。私だ!
 所詮はカネで雇った相手である。主導権は自分になくてはならない。
 -だから、このまま男を捨て置いて立ち去ってもよいのだ。
 全裸で股間を勃てたまま置き去りにされる男の、間抜けな表情もまた面白いかも知れない。
 -…!
 そんな考えを強烈に拒否する衝動が突き上げて、一瞬、立ち眩みをおぼえた。
 -この男を…私は求めているというのか…。
 違う、とすぐに考える。眼の前の男を求めているのは、自分ではなく、自分の中の「女」である。自分の中にぱっくりと口をあいた、形も定かでない、迷信と因循と蒙昧の泥沼のような「女」が、相手を求めて衝動を繰り返すのだ。
 -「もののもどり」と同じだ…。
 始まりも定かでない大昔から人々に棲みついた宿阿のような意識のように、クリアに見通せていたはずの視界を濁らせる泥沼が、自分を苛立たせるものの正体だった。濁った意識も泥沼から突き上げる衝動もいらない。それなのに、泥沼は濁りを求めてやまないのだ。
 -畜生!!!

 


 ちっと小さく舌打ちすると、鈴はずかずかと足を進めた。立ちすくむ男の眼が大きく見開かれる。
 -この男を支配するのも、私だ!
 もはや視界に収まるのは首から上だけだった。僅かでも身体を傾ければ相手に触れるところで足は止まっていた。
「こういう時にどうするかも分からないなんて、どんな育ちをしたんだろうね」
 上背のある男を精神的には下に見据えながら、鈴は乾いた声で言う。
「どう…するんだ」
 うろたえた男の声が低く響く。
「こうするんだよ」
 握りしめていた拳を、白く細い指が捉えた。拳はそのまま緞子の上着の襟に運ばれる。ようやく拳がゆるゆると解かれた。
「いい…のか?」
 このヤボ男! と張り倒したい衝動を堪えて、鈴は平たい口調で命じる。
「早くしろ」


 -しょせん、男のすることなんてみな同じ…。
 無骨な掌が身体をなぞる。首筋や背を辿った指が、ためらいがちに前へと回りこんでくる。耳元に寄せられた唇が、かすれ声で呼びかける。
「…鈴」
「黙れ」
 短く命じて鈴は顔を背けた。ひるんだように男の手の動きが一瞬止まった。が、すぐにその手は身体をまさぐり始める。
 -そうさ、男のすることなんて、みな同じ…。
 胸元の感覚が、かつて別の男と寝たときのものか、それとも、乳母や女中たちが自分の耳に吹き込んだものか、誰かが無造作に文机に置き忘れた春画にあったものか、判然としないままに鈴は、目の前で動く茶筅に結った髷を睨みつける。
 -なぜだ。なぜ、このような男を受け入れているのだ…。
 結局はそこらに掃いて捨てるほどいる因習と蒙昧が骨の髄まで染み込んだ連中と些かも変わらない男ではないか。しかも、そんな旧弊に囚われているくせに、自分に向かって商売をやめろとまで言うような無礼千万な男なのだ。おまけに、言うに事欠いて自分の心が美しいなどと…。
 掌の動きが強くなった。ふと眼をおろすと、留三郎の顔が視野に入った。
 -昏い眼…。
 男の行為にいそしんでいる切れ長の眼の昏さに、鈴は意外な感じをおぼえた。その眼に宿る感情を分析してしまうのは、いつもの習い性だった。
 -あの眼には、欲望と、躊躇と、憐憫と…。
 そこまで数えて、ふと思考が止まる。
 -憐憫? なにを、なぜ憐れむ?
 それが自分に向けられた感情であることが明白なだけに、鈴はひどく戸惑う。土倉を継いで、人を銭で操る道を選んだ自分には、恨まれ憎まれ蔑まれこそすれ、憐れみを受けることなど、あるはずがないことだった。
 -場違いにもほどがある、この私を憐れむなど…この男は、いったい何を考えているのだろう…。
 必死でそのわけを解明しようとした。だが、いまや自分の中に侵入した悍馬が疾走をはじめていた。つい、目の前のうっすらと汗ばんだ浅黒い身体にしがみついてしまう。悍馬が首をもたげるたびに、しがみつく指に力が入り、思考は分断されていった。それでも途切れがちな意識の中ではっきりと決意が刻まれる。
 -明日にはクビにしてやる、この、男の形をした因習と旧弊…。

 

 

 

 

「よお、久しぶりだな」
 学園に戻ったのは、夕刻だった。長屋の自室には、すでに伊作の姿があった。文机に向かって、なにやら書き物をしている。
「やあ、留三郎」
 伊作が顔を上げる。その顔が、ふいに傾げられる。
「もう、アルバイトは終わったのかい? 休みの間いっぱいだって聞いてたけど」
「ああ…クビになった」
「クビに?」
「ああ。何が気に食わなかったのか知らんが」
 口ではそう言ったが、内心、鈴を抱いてしまったことが馘首の原因ではないかと留三郎は考えていた。あのようなやむを得ない状況ではあったが…。
「夕食はどうしたんだい?」
 何も知らない伊作が訊く。
「ああ、おばちゃんがいないことは分かってるから、済ませてきた」
「それが正解だね…じゃ、風呂に行かないか。汗かいたんだろ?」
「だが、風呂などわいてるのか?」
「五年生たちがわかしたんだ。彼らも自主トレで残っているから」
 説明しながら、伊作は手拭いを取りに立ち上がる。だが、留三郎は座ったままである。伊作が首をかしげる。
「どうかした?」
「いや…そのことで、ちょっと相談があるんだが…」
 言いにくそうに留三郎が口を開く。きょとんとした表情のまま伊作は腰をおろした。
「…これを見てくれ」
 何があったかを口で説明するにしては、いろいろなことがありすぎた。どう説明したとしても、言いたいことがまともに伝わるとも思えなかった。だから、留三郎は黙って制服と襦袢を脱ぎ捨てる。どうしたのさ、と伊作が訊くより先に、露わになった上半身の背中を向ける。
「…!」
 うすぼんやりとした燭台の灯でも、留三郎の背中は何を経験したのか、伊作はすぐに見て取れた。
「女の人、だね?」
 微笑みながら、伊作は無数の引っかき傷を指でそっとなぞる。
「やっぱり分かるか」
「分かりすぎるほどさ」
「なんとかならないか。これが消えないと、うっかり風呂に入れん」
「いいじゃないか。いまは上級生しかいないんだし」
「なに言ってやがる! あさってから登校日で下級生たちも来るんだぞ…それに、こんなの他の連中に見られたらなんて言われるか…」
 -特に文次郎や仙蔵に見られた日には…。
「留三郎も男になったんだ、って言われるだけじゃないの?」
「そうネタにされるのが困るんだよ!」
「そんなに気にしなくてもいいと思うけど。この程度の引っかき傷なら、そのうち自然に消えるよ」
「その間、風呂に入るなっていうのかよ!」
 留三郎の声が苛立つ。
「そうは言わないけど…まいったな」
 伊作は頭をかく。
「とにかく、炎症を抑える薬を医務室から取ってくるよ。ほっとくよりは少しは早く傷が消えると思う…それに、いくつか深いのもあるから、消毒もしたほうがいいかもね」

 


「で、どんな人だったんだい?」
 薬を塗りながら、伊作は訊く。上の空の留三郎の表情を見ると、よほど印象の強い女だったのだろうと思った。
「ああ、変わった女だった…」
 ぼんやりとした口調で留三郎は語る。
「変わった?」
 伊作が眼を上げる。
「ああ、ずいぶん変わった女だった。俺とは違う考え方をするというか、俺には見えないものが見えているというか…」
 鈴に見えていて自分に見えないもの、それは自分たちを待ち受けている将来なのかも知れないと留三郎は考える。
 -俺は、毎日をただ手探りで生きていくことしかできない。だが、あの女は違う…。
 あの乾いた眼差しで、透徹した視線で、はるか遠くまでを見通せるのだろう。
「…そう」
 静かに言いながら、伊作は視線を伏せた。
「…僕たちには、まだまだ見えてないものが多い。目の前の藪を必死で切り開いているようなものだ。だけど、その人は違うんだね」
 自分が口にできなかったことをクリアに代弁されて、留三郎は思わず顔を上げる。
「伊作、おまえ…鈴を知っているのか」
「鈴? ああ、それが、その人の名前なんだね」
 あっさりと返されて留三郎は耳まで真っ赤になる。
「う…おまえ、何を言う…!」
「心配しなくていいよ。誰にも言わないから」
 淡々とした口調のまま、伊作は薬を塗る手を止めて指先を拭うと、薬壷に蓋をしてきつく縛った。
「さて、今日はたしかに風呂はあきらめたほうがよさそうだね…でも、明日にはほとんどの傷は目立たなくなっているはずだから、そんなに気にすることはない…じゃ、僕は風呂に行ってくるよ」
 手拭いを手にした伊作が部屋を後にする。ひとり取り残された留三郎は、ゆるゆると寝間着を羽織る。
 開け放した襖から、そよと夜風が吹き入る。


<FIN>

 

 

 

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