きり丸の奨学金(2)


「それではこれから奨学生選抜テストを開始する。用意はいいな…スタート!」
 大川が号令をかけると、わらわらと生徒たちが裏裏山に向けて走り出した。
「じゃ、しんべヱ、そろそろ頼むぞ」
 学園から十分離れたところで、庄左ヱ門がささやく。
「おっけー」
 しんべヱが脇道の道幅いっぱいに鼻水を噴射する。そして、何食わぬ顔で脇道への分かれ道で疲れた顔をして座り込む。やがて、伏木蔵と怪士丸がやってきた。
「やぁ、伏木蔵、怪士丸」
 いつもの無邪気そのものの笑顔で、しんべヱが声をかける。
「やあ、しんべヱ。どうしたのさ、こんなところで」
 足を止めた伏木蔵が、声をかける。
「ぼく、疲れちゃって。だから休んでるの」
「なんだ。もう疲れたの? しんべヱらしいね」
 怪士丸がうっすらと笑う。
「じゃ、ぼくたち、先行くからね」
「あ、そっちの道は、やめた方がいいみたいだよ」
 いつの間にか懐から出した饅頭を頬張りながら、しんべヱがのんびりとした声をあげる。
「どうして?」
「そっちの道は、先生たちが罠をいっぱいしかけたんだって。だから、乱太郎たちはこっちの道を行ったよ」
 そう言って脇道を指差す。
「どうする? 伏木蔵」
「乱太郎たちが行ったんなら、ぼくたちも行ったほうがいいかも」
「じゃ、そうしようか」
 伏木蔵と怪士丸がぼそぼそと相談している間も、しんべヱは泰然と饅頭を頬張りながら続ける。
「はやくしたほうがいいんじゃないの? ぼく、おまんじゅう食べたら、みんなを追ってそっちの道に行っちゃうよ?」
 しんべヱの声に、2人は顔を見合わせる。
「いくらなんでも、しんべヱに抜かされるのはまずいよね」
「そうだよね。ぼくたちも、急がなきゃ」
 ぼそぼそと話を交わした伏木蔵と怪士丸は、しんべヱに声をかける。
「ぼくたちも、この道を行くことにしたんだ。だから、お先に」
「そう。じゃ、あとでね」
「うん、あとで」
 手を振るしんべヱに伏木蔵たちも手を振りながら走り始める。と、その足が急に地面に貼りついてしまった。危うく転びそうになった二人が慌てて足元に目をやる。いつの間にか、地面にねっとりと広がった粘液に足が絡み取られていた。
「うわっ、なにこれ! 足が…」
「なにこのねとーっとしたもの」
 無理やり足を上げると、粘液が糸を引いて足に絡みつく。伏木蔵たちには、もはや何が起きたのか分からない。
「どうしようどうしよう。動けないよ」
「糸引いてるし、気持ち悪い」
 もがいている二人の前にしんべヱがすまなそうな顔をして現れる。
「ごめんね、伏木蔵、怪士丸…それ、ぼくの鼻水なの」
 しんべヱの声に、伏木蔵と怪士丸の顔色がみるみる青ざめる。
「ぎえぇぇ!」
「ばっちぃ!」
 だが、逃れようとすればするほど糸を引いて足に絡みつく鼻水に、伏木蔵も怪士丸も、半ばべそをかきながらもがくばかりである。

 


「…さすが、しんべヱの鼻水だね」
「威力がちがう…」
 物陰から様子を見ていたは組の面々の間に、ため息に似た声が上がる。
「まるでゴキブリホイホイだな」
 ぼそっと呟く兵太夫の傍らで、庄左ヱ門が声を上げる。
「よし、これでまずろ組を片付けた。あとは、い組を蹴散らすだけだ」
 その声に、誰かがお約束のツッコミを入れる。
「庄ちゃん、相変わらず冷静ね」 

 


「ところで、きり丸は?」
 乱太郎が傍らで走るしんべヱに訊ねる。
「眼が小銭になって、先頭を突っ走ってる」
「まずいな…」
 庄左ヱ門が眉をひそめる。
「どして?」
「団蔵が聞いてきたんだけど、い組もどうやら集団作戦では組の妨害を考えてるらしいんだ」
「団蔵、それほんと?」
「ほんとうだよ」
「みんな、危ない!」
 不意に兵太夫の声がしたと思うと、乱太郎たちの襟首が引っ張られた。
「うわっ」
 乱太郎たちが尻餅をつく。引っ張ったのは兵太夫と三治郎だった。
「ちゃんと前を見て走らなきゃ。用心縄に引っかかるところだったぞ」
「え…?」
「ほんとだ。こんなところに用心縄が」
「い組のしわざかな」
「いや、これはおそらく、もともとコースに仕掛けられたものだろう」
「で、なんでまずいの?」
 再び走り出しながら、乱太郎は庄左ヱ門に訊ねた。
「きり丸を1人にしておくと危険だからだよ。い組の連中は、きり丸の弱点をよく知ってるだろ」
「小銭を使うってこと?」
「そう。小銭を使ってきり丸をコース外に誘導するくらいのことは、あいつらでも思いつくだろうしね」
「そりゃまずいよ。せっかくきり丸を優勝させるために、みんなで参加しているんだから」
「だから、まずきり丸をぼくたちと合流させないと。三治郎、きり丸を探してきてくれないか」
「わかった」
 庄左ヱ門の声に三治郎はスマイルを返すと、スピードを上げて走り去った。

「ねぇ…今日の庄左ヱ門、いつにも増してすごくない? なんか、冴えまくってるというか…」
 乱太郎が兵太夫と併走しながら、そっと訊ねた。兵太夫は淡々と答える。
「そりゃそうだろうね。い組を見返す絶好のチャンスだし」
「チャンス?」
「そうさ」
 兵太夫の口調は変わらない。普通に話しているだけなのに、なぜかとても鋭い皮肉に感じる。
「い組の最大の弱点は、実戦経験が足りないことだろ? は組は実戦経験だけは豊富だからね」
「そりゃそうだけど」
「現に、い組の手の内は、庄左ヱ門にとっくに読まれてるだろ」
「このあとどうするかも、庄左ヱ門は考えてるのかな」
「当然だよ。きっと今頃、ああやって走りながら、どうやって効果的に妨害するか考えてるんだよ」
「ところでさ、金吾と伊助はどこ行ったんだろう」
「さっき、い組の偵察に行ったよ」
「それも庄ちゃんの指示で?」
「もちろん」

 


「は組の連中、なにか企んでるようだな」
 い組の伝七を佐吉は、走りながらそっと相談している。
「どうする、伝七」
「とりあえず、奨学生の座をは組の連中にだけは、渡すわけにはいかないからな」
「どうやって、妨害する?」
「まずは、先頭にいるきり丸をなんとかしないとな」
「小銭で釣ってコースアウトさせようか」
「そうだな…でも、先生たちに見つかったらやばいから、裏裏山のチェックポイントを過ぎたらにしよう」
「…」
 2人はしばし、走りながら周囲の気配を探った。
「…さて、もう気配は消えたな」
「ああ、大丈夫だ」
「は組も浅はかだな。ぼくたちがは組の偵察に気づいてないと思ってるとはな」
「アホのは組にしては、ちょっとは知恵がついてるようだが」
 あははは…と笑い声が上がる。
「庄左ヱ門がちょっとばかり背伸びしても、この程度ってことさ」
「さて、これからが本番だ。どうする」
「あいつらは、何か仕掛けてくるに決まっている。だから、水月の術を使うんだ」
「おとりは誰にする」
「一平たち、頼んだぞ」
「わかった」
「は組の連中が仕掛けてきたら、わざと引っかかってやるんだ。あいつらは単純だから、全員でかかってくるに決まってる。そこを俺たちが叩いてやるって寸法さ」
「よし。面白くなってきたな」

 


「そうか、裏裏山のチェックポイントを過ぎたら危ないってことだね」
「そういうこと」
 伊助と金吾の報告を聞きながら、庄左ヱ門は頷いた。
「じゃ、裏裏山までは、大丈夫ってことだね」
 ほっとしたような表情でいう喜三太に、庄左ヱ門は頭を振る。
「いや、用心は必要だ」
「はにゃ? なんで?」
「わざとぼくたちに聞かせるために言った可能性もあるってことさ」
「で、どうするの?」
「しっ! 誰か追走してきてる」
 伊助がそっと注意する。
「よし、みんな、これからぼくが言うことに、何でもいいから賛成してくれ。できるだけ大きい声で」
 庄左ヱ門からの伝言は、たちまち全員に伝わった。

 


「よーし、これから二手に分かれるぞ」
「おう!」
「半分はチェックポイントはパスして、帰りのコースに落とし穴を掘ってやろう」
「いいぞいいぞ!」
「ねぇ…それじゃチェックポイントはどうするの?」
 しんべヱが素で訊いてしまう。
「しんべヱったら」
 乱太郎が小声でたしなめるが、庄左ヱ門は小声で「いいんだ」と片目を瞑ると、再び大声で言った。
「…チェックポイントなんてどーでもいいさ。い組を妨害すればいいんだから」
「そうだそうだ!」
「よーし、それじゃ団蔵、金吾、兵太夫。君たちは落とし穴組になってくれ」
「了解!」
「まかしとけ!」 
「…」
 庄左ヱ門が、気配を探る。
「…気配が消えたぞ」
「い組も甘いな。ぼくたちが偵察に気づいてないとでも思ってんのかな」
「実戦経験の差だね」

 


「は組の作戦が分かったぞ」
 偵察から戻った彦四郎が報告する。
「なんだって…あいつら、チェックポイントをパスして落とし穴を掘るだって?」
「なんのためのテストか分かってんのか?」
「分かってりゃ、そんなことは考えないさ…」
 い組からはあきれたようなため息が漏れる。
「さすがはアホのは組だな。アホさ加減が違いすぎる」
「それにしてもどうする。先回りして落とし穴を掘るなんて」
「なあに。引っかからなければいいだけの話さ」
「だけど、ぼくたちがチェックポイントを通っているうちに落とし穴を掘られたら、場所が分からないぜ」
「だからといってぼくたちまでチェックポイントをパスするわけにはいかないよな…い組の面子にかけて」
 い組の面々の脳裏に、安藤の渋面が浮かぶ。
「穴を掘ってるのは団蔵、金吾、兵太夫なんだろ。とすれば、あいつらが追い込んでいく方向の足元に注意すればいいってことだよ」
「そうか」
「落とし穴の手前で、あいつらは横に飛びのくはずだ。それについていけばいい」
「でも、水月の術を使うなら、落ちたほうがいいんじゃないか?」
「団蔵たちにだまされたふりをしてついていくだけで十分さ。ぼくたちが穴に落ちなかったらあいつらきっと慌てるから、逆に穴に突き落としてやればいい」

 


 チェックポイントが近づいてきた。
「みんな、ちょっと歩きながら集まってくれ」
 庄左ヱ門が周囲に眼をやりながら小声で言った。
「止まると怪しまれるから、歩きながら作戦会議をやる…どこにい組の連中が潜んでいるか分からないから、周りを警戒しながら聞いてくれ」
 きり丸と三治郎はまだ戻っていない。伊助は作戦を先に聞いているらしい。今は、少し後ろから周囲を警戒しながらついてきている。それ以外の7人が、庄左ヱ門の周りに固まった。
「これからだね」
 乱太郎が緊張した面持ちで言う。
「なあに、お楽しみはこれからさ…団蔵、金吾、伊助」
 庄左ヱ門は不敵な笑いを浮かべる。
「ああ、いよいよぼくたちの出番だな」
 団蔵がにやりとする。
「頼んだぞ。は組突撃隊の出動さ」
「突撃隊?」
「そ。みんなは、後方支援を頼んだぞ」
「それはいいけど、何するわけ?」
「この先に、仕掛け網があるのを伊助が見つけたんだ。だから、突撃隊がい組をそっちに誘導する。全員が引っかかるとは思えないから、その間に残りを後方支援部隊が襲う」
「襲うって?」
「少し先の橋に、これから兵太夫が仕掛けをするんだ。そこに誘導する」
「ねえ、その仕掛けって、なに?」
 しんべヱが不安そうに訊く。
「たいしたもんじゃないよ。紐を引っ張れば、分解するようにするだけ」
 時間があれば、もっとすごいの作れるんだけど、という思いがあるせいか、兵太夫の言葉には、淡々としていながら黒いものがうずまいている。
「さすが…からくり好きの兵太夫だね」
 その分解する橋にはまっていくい組の様子を考えただけで、乱太郎は背中に冷たい汗が伝うのを感じるのだった。

 


「あいつら…すっかり、テストの趣旨を履き違えてますね。どうしますか」
「まあ、いいでしょう。しばらく見守っていましょう」
 少し離れた木の上から、伝蔵と半助がは組の様子を伺っている。

 

 

 

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