Summer Revolution(2)


「土井先生。ひとつ伺っていいですか」
「なんだい」
 半助と利吉は、仕事を終えて帰るところだった。日の暮れかかった田舎道に、長い影が二つ刻まれている。
「きり丸を、どうするおつもりですか」
「どうする、というと?」
「このまま忍に、するおつもりですか」
「そうだな…」
 半助は、思案するように少し言葉を切った。
「このまま私といたら、そうなるだろうな」
「忍の素質があると、お考えですか」
「素質なら、あると思う。頭の回転が速いし、カンがいい。あれでもう少し学業の成績がよければな」
 ははは…と半助は笑い声を上げる。その声が、どこかぎこちない。
「忍になることに、賛成ではないのですね」
 静かに、利吉が問う。遠くにホトトギスの鳴き声が響く。
「きり丸は、頭のいいヤツだ。これからの世で、自分の居場所がどこか、きっと見極めることができるだろう。そのとき、私が判断の枷になってはいけない。きり丸は、ああ見えて義理堅いところもある」
「…」
「折を見て、私はきり丸から離れなければならない。そうでないと、きり丸は自分の将来を縛ってしまう可能性がある。アイツがもっとドライだったら、私ももっと気軽なんだけどな」
「しかし、きり丸は、土井先生に懐いてますが」
「そうだな」
 半助の声が沈む。きり丸が、これまで多くの大人たちに裏切られ、切り捨てられてきた経験を持ってきたことは明らかだった。もしかしたら、自分は、きり丸が最後に心を開くチャンスを与えた大人なのかもしれない。
 -それを裏切ることはできない。私のようにならないためにも。
 


「ただいま」
 数日ぶりに半助が帰宅したのは、夕方だった。
 -おかしい。
 家の中はがらんとしている。もともとモノの少ない家だが、それとは質の違う空虚さを感じた。半助の忍としての勘が、この家から人の気配が消えて数日は経っていることを教えていた。
 -きり丸、どこに行ったんだ。
 文机の上から、おむつの山が消えていることにも気付いていた。それでも、何かを探すように裏庭に出た半助に、井戸端にいた近所のおばさんが声をあげた。
「半助、あんたどこに出かけてたの」
「え…いや、ちょっと」
 頭をかきながら作り笑いする半助をじろりと睨むと、おばさんは急に心配げに眉を寄せた。
「あんたが連れてきた子、ここ2,3日ほどいないようだよ。あんた探しに出かけて迷ってるんじゃないかって、ご近所でも心配してたんだよ」
「そ、そうでしたか…すぐ戻ると思うんですが…」
 とりあえずは半助までが行方不明ではないことに安心すると、にわかに怒りがこみ上げてきたらしい。おばさんの表情が再び険しくなる。
「どういう事情か知らないけど、子どもひとり残して何日も留守にするなんて、どういう了見だい。半助、今すぐ探しに行ってきなさい!」
「は、はい…、行ってきますう」
 片手を腰に、片手を半助に向けて突き出したおばさんの勢いに押されて、半助は慌てて通りに飛び出した。
 -やはり、出かけたのだな。
 探し回っても無駄なことは分かっていた。ただ、すぐに家に戻っては近所のおばさんの手前、具合が悪い。半助は、街外れの辻堂の庇の下に腰を下ろした。
 きり丸が、自らの意思で出て行ったことは、おむつの山が消えていたことからも明らかだった。他のバイトもきちんとけりをつけていることだろう。
 -だが、どこへ。
 半助には、皆目見当がつかなかった。あるいは乱太郎かしんべヱの家に遊びに行ったのかもしれないが、それならばひとこと書置きを残すのがきり丸だった。
 -なにか、身の危険を感じるようなことが、あったのだろうか。
 とっさに思いついたのは、自分の過去に絡むさまざまな怨念である。自分が手を下した殺しは、枚挙にいとまがない。当然、係累の者は、下手人を必死で探すだろう。そして、ついに半助の居所を突き止めたとしたら…。
 -勘のいいきり丸のことだ。危険を感じて身を隠してもおかしくない。
 しかしその場合でも、半助になんらかのメッセージを残すはずである。
 -それも違うのか。とすれば、やはり…。
 あえて避けてきた候補を、思考がまさぐり始める。
 -私と、私の家で共に生活することを、拒否したということなのか…。
 近所のおばさんの言うとおり、きり丸を一人にすべきではなかった。休みに入ってから、忍の仕事で何度か家を空けたことがあったが、特に問題もなかったので油断していた。
 だが、忍たまとはいえ、まだ10歳の子どもなのだ。それも、特別苛烈な過去を背負った子どもなのだ。その心情にもっともっと気を遣ってやるべきだった。
 -きり丸は、もう戻らないかもしれない。
 再び一人きりになったきり丸が、いま、何をしているのか、どんな気持ちでいるのか、考えるだけで半助は耐えられなかった。
 -落ち着け、落ち着くんだ。
 半助は、立ち上がる。
 -ここで私が動揺してどうする。いま、私にできることは、きり丸を信じて、待つことではないのか。
 そうなのだ。今こそ、教師として、生徒を信じて信じて、信じぬくことを求められている局面なのかもしれない。
 -私は、きり丸を信じる。必ず帰ってくると、信じる。だから…。
 だから、家にいなければならないのだ。きり丸がいつでも帰ってこれるように、帰ってきたきり丸をいつでも出迎えられるように。
 夜も更けてきた。誰もいない家に戻ると、半助は明かりもつけないまま布団を

敷き、横になった。

 


 もちろん、寝付けるわけがなかった。きり丸のいそうなところならどこへでも、とりあえず行って確認したかった。それ以前に、自身の身体を泥のように疲れさせない限り、気が高ぶって眠れる気がしなかった。放っておくと、身体が勝手に布団を跳ね除けて、家から飛び出してしまいそうだった。
 -落ち着け。
 忍として培った超人的な意思だけが、身体を布団の中に留めさせていた。
 -そして、眠るんだ。

 


 手裏剣を放ちながら、きり丸は考える。
 -いつまでも子ども扱いするんだ、先生は。
 苛立ちが手元にチャージされ、手裏剣と共に放たれる。
 きり丸は、まずは手裏剣の腕を磨くために、山にこもっていた。
 -だけど俺は、他の連中とは違う。
 どちらかというと、いいところの坊ちゃんが多い一年は組において、きり丸のような境遇の生徒が他にいるはずもなかった。クラスメートたちは、差別することも気を遣いすぎることもなく接してくれたが、きり丸自身に何の屈託もないかというと、そうともいえなかった。誰も守ってくれる者のない子どもに対する周囲の人間の対応は、社会の苛烈さを否応なく幼い心に刻み込んでいた。人の心の裏をいやというほど見せ付けられてきたきり丸には、ときには組のクラスメートたちがひどく幼く感じられることがあった。
 -俺には、人の腹の底が分かる。他の連中と違って。
 えいっ、と手裏剣を放つ。学園の授業のときと違い、力強く空を切る手裏剣は、まっすぐ的にした木に刺さる。
 -だから俺は…。
 


 -俺は、もっと先生の役に立つはずなんだ。


 
 今のように、半助の庇護の下で安楽に過ごすことは、きり丸の望むことではなかった。むしろ、一日も早く、肩を並べて、半助の片腕として任務に就きたかった。利吉のように。
 そして、いつか、あの香ばしく焼いた握り飯を持って、共に作戦に出かける日が来ることを望んでいた。

 

 きり丸の不在を、半助は耐えていた。きり丸の身を案ずると、頭がどうかしてしまいそうなほどだったが、それを辛うじて押さえ込み、何事もなかったように淡々と日々を送っていた。
 きり丸のバイトの手伝いもなくなったため、昼も夜も文机に向かって本に目を通していた。だが、その内容は、読む端からこぼれ落ちてしまうようだった。
 それでも、表向き、平穏に過ごす半助の姿に、いつの間にか近所のおばさんたちも、一時期同居していた少年の不在を意識することもなくなっていた。

 


「が~、ぐぐ~」
 その夜、傍らの異音に、半助は思わず身を硬くした。
 -曲者?
 だが、それは、聞き覚えのあるものだった。
 -きり丸?
 そっと身を起こして、振り返る。半助の布団の傍らで、板の間に円くなっている小さな影があった。
 -いつの間に…。
 眠っている間だったとはいえ、きり丸がすぐ隣に眠る気配にまったく気付かなかった自分が迂闊だった。ここ数日、ひどく気が張っていて疲れていたのは事実だったが。
 -布団も敷かずに…きり丸のやつ。

 


「起きろ、きり丸」
 髷を結ったままの頭を軽く小突く。
「う、う~ん」
 眼をこすりながら、きり丸が眼を覚ます。
「なんスか先生。こんな夜中に」
「なんすかではないだろう。いままでどこに行っていたんだ。心配したんだぞ」
 小言を言っていても、口調は安堵感が隠せない。
「へへ…俺」
 照れたように笑いながら、むくりと身を起こす。
「…ちょっと修行してたんです」
「修行?」
「はい。手裏剣も、だいぶ上達したんスよ」
「手裏剣なら、学園で練習すればいいだろう」
 学園の外では、誰に見られているか分からないのだ。
「学園に戻ってからじゃ遅いんです」
 不意に、きり丸の口調に力がこもった。
「遅い?」
「俺、早く一人前の忍者になって、先生や利吉さんといっしょに出かけたいんです。だから…」
「…そうか」
 -きり丸も、一緒に行きたかったのか。
 それはまだ、10歳の子どもに見せるにはあまりにシビアな世界なのだが。厳しい生い立ちを背負っているきり丸といえども、まだ目にするには早すぎる現実なのだが。
「あのな、きり丸」
 両掌をきり丸の肩に置いて、半助はゆっくりと語りかける。
「お前が一緒に行きたかった気持ちは分かるつもりだ。一人でこの家に置いてしまったことは悪かったと思っている」
「いや、そういうことじゃなくて」
「聞け、きり丸」
 掌に力が入る。
「人には、やるべきことをやる時期というものがある。今のお前がやるべきことは、勉強だ。いずれ、勉強に専念したくてもできないときが来る。そのとき、お前もひとり立ちした忍として、学んだ成果を生かしていくことになる。そのためにも、今はひたすら学ぶことが必要なんだ。分かるか」
「先生、俺…」
 きり丸が口ごもる。
「どうした? きり丸」
 口を尖らせたまま、板の間に眼を落とすきり丸に、半助の心がざわつく。
「俺は、はやく大人になりたいんです」
 顔を伏せたまま、きり丸はつぶやくように言う。
「どうして、早く大人になりたいんだ?」
 訊いてしまってから、不意に、訊いてはいけないことだったのではないかという疑念が過ぎった。
「俺も、はやく一人前になって、利吉さんみたいに、先生といっしょに仕事に出て…」
 -それで、先生だけがつらい思いをしなくてすむようにしたい…。
 続きは、声にならずにぽそりと消え入る。

「でも、俺は…」
 まだ不服そうなきり丸の頭に手を置いて、半助は苦笑する。
「いいから、早く布団を敷いて寝なさい。話は朝になってからだ」
「えー、めんどくさいですよぉ」
「じゃ、板の間で寝るつもりか? 明日になって体中痛くなってても知らんぞ」
「いーえ、ここで寝ます!」
 満面の笑みを浮かべたきり丸は、半助の布団に腰を落とす。
「ここでって、これは私の布団だぞ」
「いいじゃないっすか、たまには一緒でも」
「この暑苦しいのに、なんでお前と一つ布団に寝なければならんのだ」
「あーもう先生、ごちゃごちゃ言ってないで、早く寝ましょうよ。明日からまたバイトで忙しいんスよ」
 そういうと、きり丸はごろりと横になって寝息をたてはじめる。
 -仕方ないな。
 ため息をつくと、半助は残りのスペースに身を横たえる。
 -だが、きり丸が修行してきたというのは、確かとみえる。
 自分に向けられた髷からも、着替えていない着物からも、土ぼこりや森の下草の湿ったにおいが漂ってくる。
 -そうか。早く大人になりたいのか。
 きり丸に目をやりながら、半助はひとりごちる。まるでかつての自分みたいだと思いながら。
 -そういえば、私も早く大人になりたかった。誰にも依存せずに生きていくために。
 きり丸が、かつての自分と同じような理由で大人への道を急ぐのだとすれば、それは、自分から離れることを望んでいることも意味していることに、半助は気づいていた。
 -それならそれでもいい。一人前になるための最短距離は、自分が独り立ちす

るために必死になることだから。
 それでも、と半助は考えずにはいられない。
 -そんなに急いで大人になる必要もないんだぞ、きり丸。
 子ども時代というものは、そうでなくてもあっという間に過ぎ去ってしまう。

そして、気がつくと、大人への階梯が目の前に迫っている。それは他人への甘えも依存も許されない大人の世界に足を踏み入れるということである。
 -急がなくてもいい。きり丸は、確実に大人に向かって育っている。子どもでいられるうちは子どもでいたほうがいい。人生で、子どもでいられるのは一度しかないのだから。

 

<FIN>

 

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