Quo Vadis? (2)

 

 部屋には、伊作がすでに戻っていた。
「ただいま」
「お帰り、遅かったね」
 伊作は、文机に向かって何やら書物を読んでいる。
「こんな時間まで勉強か。精が出るな」
 髷を解いて、ぬれた髪を拭いながら、留三郎は呟く。
「そう?」
 その実、伊作の眼は書物を上滑りしていた。
 -あと3日。
 あと3日で、決めなければならないのだ。タイムリミットが定められたことが、伊作を追い詰めていた。
「明日は、組手の朝練やるのか」
 何気なく訊ねた留三郎の言葉に、伊作の肩が震えた。
「ああ…もちろんさ」
 組手の訓練を留三郎に申し入れたのも、自分の迷いを断ち切るためだった。どちらの道を採るかは、実はとっくに決まっていた。だが、どう見ても合理的と思える道を捨てきる覚悟ができなかったのだ。だから、あえて自分を忍としての道に追い込むことが必要だったのだ。

 


「伊作。火、もらうぞ」
「ああ」
 伊作の傍らの灯皿の火を自分の灯皿にも移すと、留三郎は自分の文机に置く。布団を敷き、着替えてから、文机にあった草紙を読み始める。どちらかが勉強しているときは、もう一方も静かにしているか、寝てしまうかするのがこの部屋の暗黙のルールだった。
 しばし、沈黙が流れる。時折、伊作がページをめくる音と灯芯がじりじりとたてる音だけが小さく響く。いつもと変わりない静けさだったが、今の留三郎には耐え難かった。手元の草紙のページはまったく進んでいない。気がつくと、目線は草紙を通り抜けて、衝立のほうに向かっている。

 

 
 部屋の灯のもとで見る伊作の顔色は、先ほど廊下に佇んでいるときより悪く、一層やつれきっているように見えた。
 -なぜ、俺に言わない。なぜ、俺を隔てる?
 思えば、いつもそうなのだ。伊作は、なんでも自分に話してくれる。だがそれは、もっとも重要なことを注意深く取り除いた後のものだった。
 もっとも悩んでいること、もっとも苦しんでいることは、一人で抱え込む。そして、後でそのことを知った自分が、なぜ相談しないと言うと、気弱そうに微笑んで言うのだ。そうすることが一番だとおもったから、と。心配かけてごめん、と。
 だが、今回はより重症のようである。

 -だめだ。放っとけない。
 ぱたり、と音を立てて草紙を閉じる。
 今は、むしろ、こちらから伊作を覆っている殻を破って、手を差し伸べるべき時ではないか、そう思えてきた。
 -俺に、ぶち破れるのか。
 それが物理的な殻ならば、腕力には自信のある留三郎だったから、やすやすと破ってみせることができるだろう。だが、伊作の心を覆う殻は、どうやって破ればいいのだろうか。自分に、そのための道具や手段は、あるのだろうか。

 


「伊作」
 衝立の向こうに、声をかける。
「なんだい」
「前に、お前に聞いたことがあったな」
「なにを?」
「低学年たちには、同級生や先生方には言えないことを抱え込んでいる者が多い、だから話を聞いてやってると」
「ああ…そうだったね」
 あれは、いつのことだっただろうか。伊作は、そんなことを話したことをうすぼんやりと思い出していた。
「…」
 その先をどうやって言葉にしたらいいか分からず、留三郎は唇を噛んだ。
「どうかした? 用具委員の低学年が、なにか相談してきたのか?」
「いや…そうではないが」
「どうしたんだ?」
「伊作…」
 思い切って、声を絞り出す。
「え?」
「…お前こそ、いま、何か抱え込んでいるんじゃないのか」
「…」
 気まずい沈黙が流れる。
「伊作…俺が、何も気付いてないとでも思ってるのか」
 低くくぐもった声が震えている。憤りとも、悔しさともつかないものが爆発しそうになるのを、留三郎は必死で堪えていた。
「留三郎…」
「俺がお前の役に立てるかどうかは分からない。だが、話すだけでもずいぶん楽になるもんだと言ってたよな…どうしてお前自身はそうしないんだ。俺はいつだって…」
「…」
 伊作はそっと手にしていた書を閉じて、文机に置いた。
 -分かったよ、留三郎。私の負けだ…。
 留三郎の怒りが、自分を気遣うゆえのものということが、痛いほど伝わってきた。時に、留三郎が見せる気遣いは、愚直なほどにまっすぐで、自分に向かって突き刺さってくる。そんな留三郎に、自分は沈黙でしか応えていなかった。それが、留三郎を苦しめていたことに、自分はおろかにも気づいていなかったのだ…。
 -留三郎。やはり、お前には、何もかも話さずにはいられない。そんなことがいつまでも許されることではないことは、分かっているのだが。

 


「留三郎。そっちに行っていいか」
「お、おう」
 伊作は、衝立を回りこんで、留三郎の前に座った。
「留三郎には、とっくにバレてると思ってたよ」
 小さく笑いながら、伊作は口を開いた。
「…留三郎には、私の考えてることはお見通しだろうし、私は隠しごとが下手だから…だから忍には向かないと言われるのかもしれないな」
「そんなことは…」
「いいんだ。事実だから」
 自嘲的な笑いを浮かべながら、伊作は手で制する。
「実はオファーを受けているんだ。新野先生のお知り合いから」
 さらっと言ったつもりだった。だが、語尾がかすかに震えているのが自分でも分かった。
「オファー?」
「そうだ。医術と本草を本格的に勉強しないか、とね。そのためには、越前に行かなければならない」
「越前?」
 つまり、学園を辞めるということか? と訊こうと思った瞬間、留三郎はすべてを了解した。
 -だから、ひとりで結論を出そうとしていたのか。
 たしかに、それは伊作の人生に関わることで、自分が軽々にコメントできるようなことではない。だが。
「いい…話ではないのか」
 ようやく絞り出せた返答だった。だが、それは本心でもあった。伊作の医術や本草の実力が、新野だけではない、学園の外の人間からも評価されるレベルにあるということではないか。
「本当に、そう思っているのか?」
 伊作の瞳が険を帯びる。
「ま、まあ…伊作は、医術や本草が得意なんだし…」
「私は、断るつもりでいる」
 妙に歯切れのいい声に、思わず留三郎が顔を上げる。
「どうしてだ…せっかくの話ではないのか」
「だから、本気でそう思っているのか。留三郎」

 


「このオファーを、私は、すぐに断ろうと思った。悪い話ではないことは分かっていた。それなのにどうして断ろうと思ったのか、ずっと考えていた。それで、分かったんだ。私には、学園で学んだ六年間は捨てられない」
「本当にそれだけなのか」
 こんどは留三郎が、鋭い眼で伊作を見据える。
「えっ?」
「お前がそう思いたくなる気持ちは分かるが、そのことと、一人前の忍になることは別なんだぞ。それでも、自分でも悪い話ではないと分かっている話を断るのか」
「留三郎は、私が忍にならない方がいいというのか」
「そうではない…だが」
 伊作の苛立ちが伝染したように、留三郎の声も棘を帯びる。
「お前には選択肢がある。だから、もっと冷静に考えたらどうだと言っている。お前の人生なんだ。まだまだ長い人生なんだ。何が自分にとって一番か、お前が分かっていないとは、俺には思えない」
「分かってるさ。わかりすぎるほど!」
 不意に伊作の口調が強くなった。
「…皆、私は忍に向かないと言う。忍より医術に専念した方がいいことくらい、自分でも分かっている。それでも私は、忍の道に進みたいんだ。むしろ、このオファーがあってから、私は、本当は自分は何になりたいのか、ようやく分かったといえる」
 言葉を切った伊作は、拳を握り締めたまま、ぎりと歯軋りとともに絞り出すように言う。
「…だから、選択肢なんか、いらないんだ…」

 


「組手の練習を始めたのも、そのためか」
「ああ…実はね」
「俺は、伊作の組手の技量は、俺が練習相手になどならなくても十分あると思っている。他のことだってそうだ。お前は、忍としてやっていける技量を十分持っている。だから、六年まで進級できたのだからな」
「そう言ってくれるのは有難いが…」
「だが、伊作。お前には、人は殺せない」
 留三郎の眼に、力がこもる。
「…いや、殺せるかもしれないが、割り切ることができない。お前はきっと、殺した相手のことを考えて自分を責め続ける。違うか」
「そんなことは…」
「…伊作」
 留三郎の表情がふっと柔らぐ。鋭かった眼光から穏やかな眼に変わる。
「お前には、人を殺すより、人を救うほうが似合っている。俺は、そう思っている」
「…」
「俺は、奪った命に苦しむお前より、命を救うことに熱中するお前を見たいんだ」
「…」
「まだ、今なら間に合う。医者として命を救う人生を歩んでほしいと思われているからこそ、新野先生も、今回のオファーをお前に伝えたのではないか? 俺はそう思うぞ、伊作」
「…そうきれいに話をまとめないでほしいな。留三郎」
 顔を伏せたまま、伊作は低く言う。
「どういう、ことだ?」
 妙に明瞭に言い切る伊作に、留三郎は訝しげに訊く。

 


 -たしかに、留三郎の言うとおりだ。新野先生は、私が忍に向かないから、越前行きの話をされたのだろう。だけど…。
 事ここに至って、忍の道を捨てるなど、ありえなかった。
 -私は、忍になりたいんだ。
 それはあまりに非合理的で、とても口に出して説明することはできなかったが。
 -そもそも、自分の行動を合理的に説明できたことが、どれだけある?
 科学的かつ合理的な思考を求められる忍を目指すものとして、それはあるいは決定的なマイナスポイントかもしれなかった。代わりに口にしうる説明のできないもどかしさに、伊作は苛立つ。
「留三郎にとやかく説明しなければならない筋合いではないだろう」
 言い捨てて、伊作は腰を浮かす。
 -なんて勝手なセリフなのだろう。
 自分でも、ここまで冷ややかな声になるとは思わなかった。唇を噛む。
 -留三郎、すまない。私は、これ以上、留三郎に狎れてしまってはだめなんだ…。
「変なことを言ってすまなかった。いまの話は忘れてくれ。おやすみ」
「待て、伊作」
 低く遮る声に、伊作の動きが止まる。
「お前がどういう道を選ぶかは、お前しだいだ。だが、俺は、お前にとって一番いい道を選んでほしい。お前が後悔しない道を選んでほしい。だから…」
 手を伸ばして、腰を浮かせたままの伊作の肩を軽く押し戻す。それまで入っていた力が急に抜けたように、目を大きく見開いたまますとんと伊作は座り込む。
「もしこんなことを言うのが許されるなら、俺はお前に、医者の道を選んでほしい。俺には、それが一番いいように思えてならない。理屈じゃない。俺が、そうしてほしいんだ」
「…勝手だな、留三郎は」
 留三郎の視線を避けるように、伊作は面を伏せる。
「そうさ。勝手だ、俺は。だから、俺の勝手を聞け」
 両肩を掴む留三郎の指が、猛禽の爪のように食い込む。伊作は観念して、苦笑いを浮かべた顔を上げる。
「わかったよ。それなら半分だけ、留三郎の勝手を聞いてやるよ」
「どういう…ことだ?」
「私は、医者の道を目指す。だけど、越前には行かない」
 迷いなく言い切る言葉の意味を、留三郎ははかりかねた。
「医者の修行をする、チャンスじゃないのかよ…」
「私は、学園をやめるつもりはない。越前になど行かなくても、卒業してから、優秀な医者の下で修行するつもりさ。それに…」
「それに?」
「私は、忍をあきらめるつもりもない。当面、二兎を追ってみせるさ」
 ようやく伊作の意思のありかを捉えて、留三郎の指先にこめられていた力が抜けた。伊作の肩を掴んでいた手をそろそろと下ろす。
「本当に頑固なヤツだな」
「ああ、頑固さ。そうでなければ、六年間も忍術学園に残ることなんて、できなかっただろうからね」
「そりゃそうだな。伊作にしては、上出来だ」
「私にしては、とはどういう意味さ」
「ははは…気にするな」
「ったく、仕方がないな…」
 ぶつくさいいながらも、伊作も留三郎に釣られて苦笑する。
「もっと早くこうすればよかったのかも知れないな」  
「そういうことだ」

 


 -なぜ忍にこだわるのか、まだ話してなかったな。
 留三郎の笑顔を見ながら、伊作は思い出す。いつか、話すことができる日が来るのだろうかと考えながら。
 -卒業すれば、それぞれの道を行くことになるのだろうし、あるいは敵同士になるのかもしれない。それでも、私は、留三郎と同じ空気を吸っていたい。いずれ対決しなければならない時が来るとしても、まったく別の世界で生きるくらいなら、むしろその方がいい。これは、理屈じゃないんだ…。

 

 

 

「ありました。これです。『すなわち、化膿性疾患を主体とする瘍瘡に対し、膏薬を用いる。膏薬には五種あり』」
 放課後の医務室では、新野と伊作が、福冨屋から届いた南蛮の薬のカタログと図書室から借り出した南蛮医術の本を読み比べている。
「読み上げてください」
 筆を手にした新野が促す。
「はい。『一に、Verde Unguento(ヘルテインコエンタ)すなわち青膏、吸出に用いる。一に、Branco Unguento(フランコインコエンタ)すなわち白膏、散らしに用いる。一に、Amarelo Unguento(アマレイロインコエンタ)すなわち黄膏及びCorado Unguento(コルラントインコエンタ)すなわち赤膏、癒しに用いる。一にNegro Unguento(ネクロインコエンタ)えーと…すなわち黒膏、上引きに用いる』」
「つまり、化膿には青膏を用い、腫れが進行したときには白膏を用いて排膿するということでしたな」
 伊作が読み上げたものを書きつけながら、新野は確認する。下級生たちはとうに話についていけずに遊びや自主トレに出てしまい、医務室には二人だけである。
「はい。更に悪化した場合には、膿(うませ)薬を用いて化膿を進め、口開薬または針で切開するということです」
「銃瘡が化膿した場合にも使えるでしょう…もっとも、戦場では、器具や瘍瘡を清潔に保つことのほうが難しいが」
「排膿薬なら、伯州散や仙方活命飲でも良さそうですが」
「南蛮薬の特色は、対処療法的な患部の治癒を目的としていることです。漢方のように身体の治癒力を高めるわけではない。即効性は期待できるかもしれないが、われわれの身体に合うかどうかはまだ症例が蓄積されていないので、分からないというのが現状です」
「外科薬なら、副作用等の懸念も少ないように思いますが」
「そうかも知れません。効果が検証できれば、南蛮薬が外科分野における主流になることも、ありえるでしょうな」
「それにしても、これらの膏薬は、何でできているのでしょうか」
「南蛮の膏薬の基剤として、ヤシ油、ポルトガル油(オリーブ油)、マンテイカすなわち豚脂、テレメンテイカすなわち生松脂から採るテレピン油などがあります。これらの組み合わせに緑青や白蝋、朱などを加えているようですが、くわしい処方は分かっていません」
「どのような効果があるか、見てみたいのですが…」
「そうですな。福冨屋さんを通じて取り寄せてみますか」
 新野がカタログを覗き込んだとき、「失礼します」と声がして襖が開いた。
「留三郎。どうした」
 伊作が声をかける。
「小平太が、自主トレ中に崖から落ちて怪我をした。すぐ来てくれないか」
「わかった」
 伊作は救急箱をつかんで立ち上がる。
「新野先生。発注を、お願いします」
「わかりました。七松君を頼みましたよ」
「はい」
「伊作、こっちだ」
「よし」
 2人が勢いよく医務室を飛び出す。

 


 -やはり、彼には医師が向いていると思うが…。
 医務室に残った新野は苦笑する。
 -彼の知識と技能を伸ばすには、越前は格好の地だろう。だが、彼なら行かなくても何とかなるかもしれない。
 留三郎と共に医務室を飛び出すときの、引き締まったなかにも輝くような表情は、越前では失われるかもしれない、ふとそんな気がした。
 -道順には、私から断りの手紙を書こう。今しばらく、私の手元で修行させたい、と。
 医師であり忍である、その両道を極めていこうとすれば、いずれ行き詰ることは、本人がいちばん分かっているだろう。それでも、しばらくは両道を歩ませてやるのが、本人にとっていちばん幸せなことなのかもしれない。新野は、そう考えることにした。

 

<FIN>

 

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