PLATEAU(2)

 

「金吾。私は、これから山に入って修行しようと思う。金吾はどうする」
 翌朝、水を汲んだり、雑炊を作ったりと忙しく立ち働く金吾に、新左ヱ門はさらりと声をかける。
「山に、ですか?」
 野菜を刻んでいた金吾が、弾かれたような表情で振り返る。師である新左ヱ門には、時折このようなことがある。唐突に、意味を図りかねることを言い出すのだ。
「そうだ。山の気を浴びて、剣の心を研ぎ澄まさねばならぬ」
 -昨日の夜のこと、気にされているのかな。
 自分が不用意に口にしたことが、新左ヱ門に余計なことを考えさせてしまったのかもしれない。だが、金吾にとっては、考える余地もないほど答えは決まっていた。
「はい! ぼくも、お供させてください!」
「そうか。では、食事が終わったら、出かけるぞ」
「はい!」
 金吾は、ただ新左ヱ門のそばにいたかった。その剣捌きを見ているだけで、いや、稽古をつけてもらえばなおさら、新左ヱ門の強さや剣に対する姿勢が自分の中にも入ってくるような気がして、金吾は新左ヱ門から離れられなかった。時に無意味に(と金吾には思えた)ハエだかアブだかに斬りかかるあまり、部屋中のものを斬って家を追い出される羽目に陥っても。
 だから、新左ヱ門が山にこもるというのについていかない選択肢はありえなかった。新左ヱ門の修行がどのようなものなのかを間近で見ることで、ただ強いだけではない、その強さを裏打ちする何かを知ることができるかもしれない、そう思うだけで、金吾は興奮を抑えきれなくなる。

 


 目を輝かせて同行を申し出る金吾に、新左ヱ門の迷いがより深まる。
 -本当に、これでいいのだろうか。
 いま、目の前で立ち働く金吾は、実に楽しそうに、慣れた手つきで朝食の用意をし、また空いた手では、しばらく留守にしてもいいように片づけを始めている。だが、金吾の実家は、鎌倉の侍の家であり、実際に会ったことのある金吾の父親は、見るからに上級武士と分かる風情の人物だった。そのような家の息子である金吾が、実家でこのようにこまごまとした家事をやっていたとは思えない。全寮制の学園では、掃除や洗濯くらいは自分でこなさなければならなかったが。
 -それも、自分を慕っているからか。
 そんな金吾を山の中に連れて行って、万一、病気や事故になったら、いや、そこまでいかなくても、育ち盛りの金吾には、山中での質素な食事など、耐えられないかもしれない。上級武士の子であれば、おそらく飢えということなど、知らないだろうから。
 -これこそ、着(ぢゃく)にまみれた心根ではないか。
 仏法にふかく着をきらふ也。これも、修行中に教わった言葉だった。ものに執着する心こそが、およそものを極める心の妨げになるのである。自分が行い澄ました僧のようになれるとは思っていなかったが、いまの自分は金吾という着にまみれてしまっているのではないか。
 -決めたはずではなかったのか。子ども一人連れたところで妨げになるような修行など、しないつもりだと。
 そして、金吾を一人前の剣豪にしてみせるのだと。

 


「少し休もう」
 小川のほとりの、大木が影をつくっているところで、新左ヱ門は足を止めた。
「はい!」
 木の根元に担いできた荷物を下ろすと、金吾はふう、と大きく息をついた。
「少し、汗を流すといい」
「はい!」
 流れに浸した手拭いを懐から入れて身体を拭うと、急に袖口から入る風が涼しく感じられるようになった。
 -今日のうちに、修行の場につかねば。
 黙然と考えながら、更に流れに手拭いを浸す。金吾はすでに着物を脱ぎ捨てて流れに飛び込んでいる。
「深みにはまらぬよう、気をつけるのだぞ」
 気持ち良さそうに泳いでいる金吾に声をかけると、新左ヱ門は木陰で座禅を組む。

 


 座禅を終えて閉じていた眼を開くと、金吾の姿がなかった。
 -どこに行ったのだ。
 胸騒ぎがする。ふと、離れたところから空気の動きを感じた。
 振り返ると、少し離れたところで、金吾が打ち込みの稽古をしていた。新左ヱ門の邪魔にならないようにしたのだろう。口を固く引き結んで、ひたすら剣を打ち下ろしている。

 


 修行の場として新左ヱ門が目指していた場所に着いた。
「ここだ」
「ここですか?」
 金吾がきょろきょろする。そこには泊まれるような小屋掛けすらない。その代わりにあるのは、ぱっくりと口を開けた洞穴である。
 -ここに泊まるのか…。
 新左ヱ門のことだから、厳しい場所での修行とは分かっていたが、洞穴に泊まるということに金吾はやや引くものを感じる。
 -いや、そんなことを言ってはいられない! 戸部先生が居られる場所だけがぼくのいる場所なんだ!
 自分を叱咤しながら薄暗い洞穴に足を踏み入れる。
 -戸部先生さえいればだいじょうぶだ! ぜんぜんこわいことなんてない!
 

 

 その日から、新左ヱ門は、金吾の存在など目に入らないように修行に没頭した。近くの滝での滝行と打ち込みをひたすら交互に続けていた。
 -ぼくも。
 金吾も滝行に挑戦しようとしたが、あまりの水の勢いに数分も持たずに退散せざるを得なかった。
 -先生のじゃまになってはいけない。
 だから金吾は、夕方になって新左ヱ門が洞穴に戻ってくるまで、あえて話しかけることをやめた。そして、朝晩の食事の用意をするほかは、邪魔にならないように少し離れた場所で、打ち込みの稽古を続けたのだった。
 昼間はまだそのように過ごすことができた。だが、深山の夜気は、まだ小さい金吾には耐えがたかった。得体の知れない魑魅魍魎の前に、無防備な裸をさらしているようで、金吾は新左ヱ門の身体にひしとしがみつかないと、夜を過ごすことができなかった。

 


 -仕方のないヤツだ。
 今夜も自分の腕にしがみついている金吾の体温を感じながら、新左ヱ門は考える。
 -まだいとけない子どもなのだ。
 金吾の不安を、新左ヱ門はおおよそ察していた。それは、夜気の寒さだけではない、深山がもつ人を拒む空気が、金吾を不安にさらしているのだろう。
 -だが、山を降りる頃には、金吾も一人で眠れるようになっているだろう。剣捌きも、より上達していることだろう。
 日中の金吾の鍛練ぶりを見ている新左ヱ門にとって、それはほぼ確信である。
 -それに比べて、私は…。
 すでに山にこもって数日が過ぎていた。だが、自分にはなんの進歩もない。何かを得た、という感触がないのだ。
 だが、結果を求める時点で、間違っているのだ。それは、ここまでやれば得られるという種類のものではなく、気がついたときには得られている、というものなのだ。それまでは、ただ無心に打ち込みを続けるしかない。

 


「…やぁ、たぁ…」
 寝言をいいながら、不意に金吾の身体が新左ヱ門から離れ、寝返りを打った。
 -ほう?
 新左ヱ門は、金吾を見やる。星明りに照らされて、金吾は背を向けて、寝息をたてている。
「…たぁ、とぅ…」
 夢の中でも、剣術の稽古をしているのだろうか。
「…せんせぃ…おねがいしま…す…」
 稽古の相手は、新左ヱ門らしい。
 -私を相手に、なにをやっているのか。
 休みの前に集中的に取り組んだ居合だろうか。
 -金吾の居合は、一年生の中では一番だからな。
 自分が思うより、金吾の上達は早かった。剣術を担当している自分の目から見る限り、金吾は優秀な生徒と言ってよかった。担任の山田伝蔵や土井半助から授業の様子や成績を聞くところによれば、他の科目では惨憺たるありさまのようではあったが。
「好きこそものの、と言うべきところですかな」と伝蔵が苦笑していたのを思い出す。そうではあっても、自分が教えている生徒が着実に成長しているのは、見ていて何より嬉しいことだった。
 -そうだ。私は、教師なのだ。
 不意に、そう考えた。
 -教師というのは、生徒を伸ばすことが第一であるべきものではないのか。
 自らの鍛練も必要だが、それは、生徒たちに真剣に対応するための副次的なものではないのか。いくら自分が成長しても、生徒たちが成長しなければ、意味のないことではないのか。
 -今の私には、生徒たちを伸ばし、ともに成長していくことが求められているはずだ。それなのに私は…。
 自分のことばかり考えていた。
 -見つけたり。

 


 -明日にも、山を降りよう。もうここに用はない。
 覆っていた雲が急に晴れたように感じる。
 -金吾が、教えてくれた。私がなすべき役割を。
 自分に背を向けて、まだ何やらむにゃむにゃと呟いている金吾を、新左ヱ門は、限りなくいとおしく思えた。
 -お前のおかげだ。私はもう、迷わない。
 教師として学園にいる限り、生徒たちを、伸ばしていくのだ。自分が成長しなくてもいい。むしろ、自分を踏み台にして、乗り越えて、伸びていってほしい。それこそ教師冥利というものである。
 -風邪をひくぞ、金吾。
 こころなしかいつもより穏やかな眼で金吾を見やる新左ヱ門は、夜具代わりの風呂敷を金吾の身体に掛けてやる。
 月の光が、その寝顔を照らしている。

 

 

<FIN>

 

 

 

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