「弓と印地打ち組、かかれぇ!」
 小隊長の掛け声とともに一斉に矢が放たれ、石が空を切る。
 -すげ…。
 アカタケ領内に潜入した小平太が最初に目撃したのは、土倉の襲撃シーンだった。だが、それはこの時代によくある襲撃ではなかった。
 -まるでどこかの城の軍隊みたいだな。
 土倉の周りには、雇われた足軽たちが槍や鉄砲を構えて守りを固めていたが、攻める方は火器こそ持っていないが十分訓練された軍隊のようである。指揮官の指令とともに一糸乱れず攻撃を仕掛ける。
「敵だ!」
「敵が来たぞっ!」
 守備の足軽たちがどよめく。通常なら蔵を破ろうと我先に押し寄せるはずの叛徒が、なぜか離れたところから秩序だって攻撃してくる。慣れない攻撃に動揺がはしる。
 と、攻撃が止まって叛徒を率いる小隊長が進み出て声を張り上げた。
「麻布屋に告げる! アカタケは今や我ら民が治める国ぞ! 富を独り占めするものは有徳人にあらず! 無徳人である! 徳のない者は消え去るのみ! 降伏して蔵を開け放つなら許しもするが、そうでなければ死あるのみ!」
 しばし緊張の糸が張り詰めたような沈黙があった。門内に入った足軽頭が指示を受けたらしくまた出てきた。そして、小声で指示を触れ回った兵が足軽頭のもとへ戻ると同時に足軽頭は無言で片手を振り上げた。
 次の瞬間、鉄砲を構えた足軽が一斉に発砲した。ほぼ同時に攻撃側の矢と石が一斉に降り注ぐ。
「ああ、これで麻布屋さんも終わりだな」
 攻防戦を見守る人々のなかに小平太はいた。近くにいた町人らしい男が呟く。
「代官とべったりでしこたまうまい汁を吸ったんだ。因果応報だ」
 傍らにいた別の男が吐き捨てる。
 -そうか。代官と近かったから鉄砲を持った足軽まで集められたんだ。
 その会話に耳を傾けながら納得する小平太だったが、先ほどから抱いていた疑問を振ってみることにした。
「なあ、攻めてる連中はどっかの軍隊あがりなのか?」
「それがさっぱり分かんねえ」
 最初に呟いた男は、小平太をさほど怪しむ風もなく答える。「ああやって土倉や地主を襲う連中や、取り上げた銭や食い物を配ってる連中がどんなヤツなのか、誰も知らねえんだ」
「すごい秘密主義らしいぜ」
 別の男が話に入ってきた。「隣に住んでたヤツの息子がふっと家出したと思ったら、あの軍隊みたいな連中の中にいつの間にかいたんだそうだ。どうしてそうなったのかいくら聞いても秘密は洩らせないって頑として答えなかったっていうぜ」
「連中の頭がどんなヤツだか、誰も見たことがないらしいな」
「だが、地主や土倉から取り上げた銭や食い物を貧乏人や乞食に配ってるから、加わりたいって連中がどんどん増えてるらしいぜ」
「だが、百姓も田畑取り上げられちまったんじゃやる気出ねえよな」
 いつの間にか土倉の襲撃も小平太のことも眼中に入ってないように噂話に熱中する男たちだった。だが、耳を傾けている小平太には分からないことだらけである。
 -よく分からんことは、とりあえず仙蔵にでも聞いてみるか。
 あっさり思考を中断した小平太は、そっと群衆に紛れて姿を消す。

 

 

「おい、仙蔵。やっぱやめといた方が…」
「何を言う。せっかくのチャンスではないか」
 ためらいがりに声をかける文次郎の傍らで、仙蔵は慣れた手つきで髪を結いあげる。
「いくら羽伝に言われたからってよ…」
「言っておくが、羽伝に言われたからやるわけではない」
 鏡に眼をやりながら仙蔵は言う。「情報収集の一環だ」
「だからって…」
 文次郎と仙蔵は大きな茶屋の控室にいた。羽伝の指示で仙蔵のために特別に部屋が用意されていた。そして輸入物の豪奢な緞子の衣装も。
 その前日、二人は羽伝に呼ばれていた。そして、ハツタケ領内で内乱を起こそうとしている動きがあることを知らされた。そして、その謀議がこの茶屋で行われることも。
「お二人は忍者ということだ。ぜひ、この謀議の内容を探ってもらいたい」
 さも当たり前のように羽伝は言った。
「正確には忍者のタマゴです」
 落ち着き払って仙蔵が訂正する。「分かりました。やってみましょう」
「おい、ちょっと待て…」
 文次郎が言いかけるが、すでに満足げに頷いた羽伝は立ち上がっていた。「ではよろしく。手はずはあとでお知らせしよう」
「どーゆーことだよ!」
 羽伝が立ち去ったあとの部屋で文次郎がきっとなって言う。「お前、羽伝の言うこと聞いてなかったのか? 稚児茶屋でやるんだぞ? お前には貞操観念ってのがねえのかよ」
「私がそこで貞操を売り飛ばすとでも思っているのか」
 うんざりしたように仙蔵が大きくため息をつく。「ここで完璧に任務をこなせば、ハツタケでの忍者の口もできるかもしれないのだぞ。そういうことも考えろ」
「だがな…」
「安心しろ」
 なおも言い募る文次郎を遮った仙蔵と襦袢のうえにずっしりした緞子を羽織る。「私がそんなにやわではないことは、お前が一番よく知っているだろう」
「あ、ああ…だが」
「そうさな」
 ここまで自分を気遣う文次郎も珍しい、と思いながら仙蔵は帯を結ぶ。そして、もしかしたら文次郎なりに感じるものがあるのかもしれないと考えた。
「…であれば、私の座敷の間、見守っていてもらえないだろうか。たしかにこのようなものを着ていては、いつものようには動けない可能性があるからな」
「う…わ、わかったよ」
 ようやく嫌々ながら頷く文次郎に「では頼むぞ」と立ち上がりざま軽く声をかけると、仙蔵は大仰な衣擦れの音を立てながら妖艶な足取りで歩き去る。
 -ちっくしょ! こんなとこ長くいたら頭がおかしくなるぜ!
 控室にひとり胡坐をかきながら文次郎は声に出さず毒づく。
 -だいたい、なにが高級稚児茶屋だ! こんな気色悪いとこ、なんで繁盛するのかぜんぜん分かんねえ!
 仙蔵たちが潜り込んだのはよくある稚児茶屋ではなかった。高級遊女の姿をさせた稚児が接待するという今までにないコンセプトの店だった。食事は一流の包丁人が腕を振るい、酒は柳酒かそれ以上のランクしか出さない高級店だったが、金回りのいいハツタケ領内の商人たちや、噂を聞き付けた諸国の金持ちたちが押し寄せて連日大盛況だった。そんな出入りに紛れて一揆勢が最終的な密談を行おうとしていた。

 


≪思えばこの世は 常の住処にあらず
 草の葉に置く白露 水に宿る月より猶あやし
 金谷に花を詠じ 栄華はさきを立って
 無常の風にさそはるる…

 

 幸若舞の謡にあわせて鼓が鳴り、きらびやかな衣装をまとった稚児が舞う。折敷にならぶ銘酒と珍味に表情をほころばせた男たちが、陶然として舞を見やる。
「それにしても、そちらの頭領は、お見受けするにいささか頼りないようだが」
 杯を口許に運びながら気がかりそうに問う声に、伊作を頭領に担ぎ上げた村の長老が小さく首を振る。
「ご安心なされ。ああ見えて医術の腕はなかなかのものでしてな。周辺の村も含めて皆すっかり信頼しておる。頭領に祭り上げるのにあれ以上の者もあるまい」
「ならばよいが」
「して、決行日はいつとする」
「いずこの村も準備は整っておりまする」
 上機嫌で杯を傾けながらも男たちの話題は謀議に移っている。
「だが、よくよく用心せんといかん。どこで敵の眼が光っているか分からぬからな」
 心配げに辺りを見回しながら言う者もいたが、すぐに別の村の長老が口を開く。
「なんの。だからこそここを最終打ち合わせの場としたのじゃ。ここなら余計なものに聞かれる心配もないからの」
「まあ…そうであるが」
 気がかりそうに男が頷く。
「であれば決まりであろう」
 長老が口を開く。「あまり時間をおいて摘発されては元も子もない。明後日の子の刻に蜂起ということでどうじゃ」
 それは幸若舞がまさに佳境を迎えるシーンでの一言だったが、男たちはいかにも舞に見とれるふりをしながらも同意する。
「同意」
「かしこまった」

 

 

「君、初めてとは思えないうまさだね」
 座敷がはねた後、控室へ下がる廊下で朋輩の稚児が大儀そうに汗を拭いながら言う。「初めての座敷ではたいていお客さんにお持ち帰りされるのが常なんだけどね。あそこまでぬらくら逃げおおせるのは初めて見たよ」
 長老の一人にすっかり見染められた仙蔵は、手を握って放さない相手を何とか言いくるめて座敷を引き上げることに成功していた。
「おそれいります」
 楚々と歩きながら仙蔵は応える。「それにしても、ここまですごいお店とは知りませんでした。普通に酌をするよう申しつかってしかおりませんでしたので」
「このお店がどんなお店か知らなかったってことかい?」
 呆れたように朋輩が声を上げる。「ここはハツタケはもとより周辺のどこにもないほどの高級店なんだよ? 身元の確実なお客さんしか入れない店なんだ。お迎えする方もそれなりの準備が必要なんだよ?」
「お客様が上品だからこそ、あまり無理に売り込まない方がよかろうと思ったのですが」
 落ち着き払って仙蔵が応える。「私としてはいくらでも夜伽のお供を仰せつかりたいところでしたが、まずは先輩方にお譲りした方がよかろうと思ったのですが…まずかったでしょうか」
「まあ、そこまで分かっていてのことならそれでよかろうよ」
 先を歩きながら先輩稚児は言う。「我々の世界では、お客様を横取りすることほど横紙破りはないからね…その点君は実にうまいよ」 
「恐れ入ります…ところで」
「なに?」
「どうしてこのお仕事を?」
「それ、本気で聞いてるの?」
 呆れたように朋輩は肩をすくめる。「ゼニになるからに決まってるだろ?」
「でも、ここにはお金になる仕事はほかにいくらもあると思いますが」
「このお店は高級店だって言ったろ?」
 朋輩は頬にかかった髪をかき上げる。「どこかのお城の偉いさんに眼をかけてもらえるチャンスはこっちの方が高いからだよ。あ、そうだ。ハツタケ城の宇尾連羽伝様には手出し無用だからね。羽伝様にはもう何度かお相手いただいてて感触良好なんだ。近いうち身請けして小姓に取り立ててくださるようなことも仰っていただいてるんだから、くれぐれも邪魔しないようにね」
「はい…」
 言いさした仙蔵が足を止める。
「ん? どうしたの?」
 朋輩が振り返る。
「いえ、ここが部屋なので」
「そっか」
 納得したように頷いた朋輩が、不意にねちっこい眼で仙蔵を見やる。「それにしても、新人で個室をもらえるなんてよほどのことだよ。君、どんな引きがあったんだい?」
「私のような者にも目をかけてくださる方がおりまして」
 何もない、といっても余計に詮索されるだけだろうと考えた仙蔵は曖昧に応える。この世界では、これ以上詮索するなという意味になるだろうと踏んでいた。
「そ」
 果たして朋輩は軽く肩をすくめただけですぐに背を向けて歩き始める。「まあ、その旦那さんを大事にすることだね。なにせ我々は飽きられたら捨てられて終わりだからね。スポンサーなしでお座敷に出るのはなかなか心理的にキツいよ。いずれ分かると思うけど」
「憶えておきます。ありがとうございました」
「お疲れ」  
 大儀そうに持ち上げた片掌をひらひらさせて朋輩は立ち去る。その背に軽く会釈してから部屋に入った仙蔵はようやく小さくため息をつく。
 -文次郎はどうした。
 天井裏から見守っていたはずだが、座敷の途中から気配が消えていた。と、鏡台に石筆の書置きが残されているのに目が留まった。そこには一言、≪伊作たちのところにいく≫ 
 -やれやれ。
 一読した仙蔵は、書置きを破り捨てると緩慢な手つきで帯を解き始める。
 -私としたことが、ここまで疲れるとはな…。
 体力には自信があるつもりだったが、ずっしりと重く、動くたびに濃厚な香をくゆらせる緞子を引きずりながら客たちを接待するという苦行は思った以上に消耗するものだった。
 -それにしても、羽伝も一皮むけばただの稚児マニアだったということか…。
 滔々とハツタケの経済や社会について語る羽伝には、機械のような無機質さしか感じなかった仙蔵だったから、よりによってかなり特殊な稚児趣味を持つ羽伝と同一人物として結び付け難かった。
 だが、それがハツタケ領内に入って、城下に身を置くようになってずっと感じていた違和感の正体のような気がしてきていた。
 -矛盾しすぎなのだ…どれもこれも、どいつもこいつも…!
 戦で荒廃した国土を10年ほどの間に奇跡的に立て直し、いまや周辺から人、モノ、カネが流れ込むほどの経済発展を実現し、社会の急激な変革もいとわず今もまだ貪欲に成長を続ける輝かしい社会経済。だが、その光が眩いほど、刹那的で退廃的で糸の切れた凧のような不安定な寄る辺ない空気が濃い影となって社会を覆っているのだ。
 -そして、その副作用も…。
 あまりに急激な変革についていけない者、反発する者もまた無視しえない勢力に育ちつつあった。伊作や長次たちが言っていたように、片や排除された旧勢力や壊された農村秩序を取り戻そうとする者たち、片や今までとまったく異なる社会を作ろうと目論む者たち。
 -この先に、何が待っているのか…。
 着物と帯を片付けながら、仙蔵はどう考えてもこの先に明るい将来があるようには思えずにいた。鏡に向かって化粧を落とそうとしたとき、
「おや、仙丸ちゃん」
 無遠慮に襖を開けた茶屋の主人が声を上げる。「なにくつろいでるんだい。お迎えが来てるんだよ、ささ、早く準備をするんだよ」
「え…?」
 思わぬ展開に主人を振り仰ぐしかできない仙蔵だった。 

 


 -今夜か、それとも明日か…。
 虫の声がひときわ高く響く夜だった。一揆勢の本拠地の村にある屋敷の一室で、伊作は文机の前に端座したまままんじりともせず虫の声に耳を傾けていた。
 ここ数日、目に見えて一揆の準備は進んでいた。奉行たちの眼が光っていないのをいいことに昼夜構わず武器が運び込まれ、幹部たちの動きも慌ただしくなっていた。数日のうちに古びた甲冑に身を固めた長老たちがやってくるだろう。そして自分は、頭領として出陣するだろう。
 どうして事ここまで至ってしまったのか、自分でも分からなかった。仙蔵に医術の知識が必要だと呼ばれてハツタケ領内に入り、求められるままに城下や農村で治療をしている間に医術の大家として人々の注目を集め、一揆勢に祭り上げられていた。だが、自分を押し上げる軍勢は若者を欠いたあまりに弱々しい勢力だった。出陣すれば最後、いくらも戦わないうちに自分は叛徒のトップとして捕えられ、良くて打ち首、悪ければ長い拷問の末にゆっくりと殺されるだろう。
 そのとき、留三郎は助けてくれるだろうか。その気配は天井裏から消えている。一揆勢の幹部たちの動きを追っているのだろう。だが、留三郎がいくら強くても、自分を拉する流れから引き上げることはできるだろうか。文次郎は、仙蔵は、長次や小平太は助けに来てくれるだろうか。
 仲間たちを信じていないわけではなかった。だが、ここまで速い流れに抗いようもなく流されたように、仲間たちにも及ばない速さで死へとまっしぐらに向かう流れに、足を踏み入れることはできるのだろうか。自分をすくい出してくれるだろうか。
 -できなかった場合のことも、覚悟しておかないといけないんだろうな…。
 いざとなれば自分ひとりで脱出しなければ、ということは何度も考えていた。だが、抜け出そうと思えばチャンスはあったはずなのにここまで至ってしまったと同様に、これからも抜け出せない可能性のほうが高いように思えた。そもそも自分はとんでもなく不運なのだ。
「あの…善法寺せんせい…」
 すっかり考え込んでいたから、部屋の外から呼びかける押し殺した声に気付くのが遅れた。
「あ、ああ…六助君だね。どうぞ」
「失礼します」
 遠慮がちに障子が開かれ、恐縮しきった顔の六助が入ってきた。
「こんな時間にどうしたんだい? それに、とても顔色が悪いようだけど」
 文机に置かれた燭台の灯に照らされた六助の表情には深い焦燥が刻まれている。
「いえ、なんでもありません」
「そう」
 あえてそっけない返事をして反応を待つ。果たして六助は頬を少し紅潮させて身を乗り出す。
「善法寺せんせいは、本当にこのまま行くおつもりなんですか?」
「このままって?」
「だから…一揆の…頭領に…」
「だからここにいるんだよ」
「でも、このままでは…」
「ねえ、六助君」
 これ以上とぼけた会話をしても六助が言いたいことも言えずにいるだけだと考えた伊作が微笑む。「僕が一揆の頭領から降りた方がいいと思っているんだね?」
「それは…」
 果たして図星だったらしい。六助の顔がみるみる耳まで真っ赤になる。
「君が心配してくれるのはとてもうれしいよ」
 言いながら、すでに伊作は廊下の人の気配を感じていた。
 -きっと、六助君は僕を試すよう言われて来たんだ…。
 この期に及んで逃げ出さないか確認するために、あえて一揆に賛成ではない六助を寄越したのだろう。そうすれば伊作の本音をあぶりだせるだろうから。
 -もちろんそんな手にはかからないけど、六助君が心配なのも確かなんだ…。
 だから伊作は外にいる者に聞かれてもいいよう、慎重に言葉を選びながら語りかける。
「この前、君は、世の中は進んだり後戻りしながら進んでいくって話してたよね。僕もその通りだと思う。だけど、戻る方向はきちんとコントロールしないといけないと思うんだ」
「戻る、方向ですか?」
 きょとんとしたように六助が眉を上げる。
「そう。きっと、いまのハツタケ領内は、極端に経済発展に振れてしまった世の中なんだと思う。でも、そんなのは長くは続かない。この一揆もきっとそんな行き過ぎを正すためのものだと思う。だけど、きちんとコントロールしないと一揆のあとの世の中が変な方向に進んでしまう可能性もあると思うんだ。それはきっと、良かった時代のものじゃない」
「では…どうすれば…」
「僕は思うんだけどね」
 微笑みながら伊作は続ける。「揺れ戻しがあったあとの世の中をあるべき世の中にするには、一揆のなかである程度の役割を果たしてないといけないんじゃないかな。外にいた者がいくら正しいことを言っても、耳を傾けてもらえないことってあるだろう?」
「は、はい…」
 思わぬ伊作からの説得に戸惑ったように六助は応える。
「だったら」
 安心させるように声を低めながら伊作は六助の手をそっと握る。「ここは僕に頭領を抜けるように言う場合じゃないだろう? 僕は一揆の頭領として、終わった後のあたらしい世の中を作る手伝いもしたい。もちろん君の知恵も借りたいと思っているんだ」
 一揆の終わりがどうなるかも、そのとき自分がどうなっているかも全く見通しはつかなかったが、伊作は握った手をそっと振りながら語りかける。
「あの…」
 六助の眼に浮かされたような熱情が帯びる。「私でも、できるのでしょうか」
「もちろんさ」
 今まさに、自分は嘘をついている。胸が悪くなるような感覚をおぼえながら、伊作は請け合う。結局、ハツタケ領で知り合った唯一のまともな認識を持つ人物を生かしきれなかったと後ろめたく思いながら。
 -行ったな。
 廊下に佇んでいた人の気配がそっと遠ざかるのを伊作は捉えていた。どうやら六助はきちんと役割を果たしたとみなされたらしい。
「だからね、六助君」
 もう聞き耳を立てる者がいないとみた伊作がさらに語りかける。「君はこの一揆を外から見守っていてほしい。君はとても客観的に物事を見る眼を持っている。だからこそ、この一揆をしっかりと観察していてほしいんだ。いいね」
「…はい」
「もうすぐ出陣だ。人の出入りが慌ただしくなる前に出た方がいいよ」
「はい…では、失礼します」
 性急な伊作の口調に押し出されるように六助が立ち去る。
 -これでよかったのかな…。
 六助が座っていた場所にぼんやりと眼をやりながら伊作は自分に問いかける。

 

 

「こんなとこに何しに来たんだよ」
 一揆の首脳陣を見張っていた留三郎が声を尖らせる。その傍らに現れたのは、仙蔵を警護しているはずの文次郎だったから。
「決行日がわかったぞ」
 覆面の下からぼそりと文次郎は呟く。「明後日だ」
「なに…マジかよ」
 ぎょっとしたように留三郎は顔を向ける。「それ、確かなのかよ」
「伊作を頭領に担ぎ上げたヒゲのじいさんも寄り合いに出てたぞ」
 文次郎の声は平板なままである。「連中、思ったより大掛かりにやるかも知れねえぜ」
「そっか…それならやっちまうかも知れねえな」
 ふたたび首脳陣に眼を戻した留三郎が呟く。文次郎が眉を上げる。
「どういうことだ」
「たしかに一揆の主力は村の年寄り連中だ。だが、バックには前殿さま派のリストラされた家臣連中がいる。そいつらがかき集めた足軽もいる。それに…」
「なんだよ」
「奉行方の兵力はひょっとしたらとんでもなく弱いかもしれねえ」
 留三郎は苦々しい口調で言う。「奉行が商人上がりのせいか、武術の方にはぜんぜん興味がないようでな、部下の侍たちも農家の取り締まりばっかやらされて配下の足軽の訓練に手が回ってねえし、足軽連中は街で稼いだ方がカネになるからってどんどんいなくなってる」
「なんだよそれ」
 呆れたように文次郎がため息をつく。「そんなんで国を守れるのかよ」
 好景気で沸き返ったような街の様子を思い出す。そこはたしかに羽伝が言うように日本全国で銭が不足しているとは思えないほど多額の銭が飛び交う巷だった。誰もが浮かされたように新しいビジネスを始め、あらゆるものの価格は高騰し、さまざまな新奇なものが生み出されていた。大小の商人たちは贅を凝らした屋敷を建て、輸入物の工芸品や洗練された美術品を見せびらかし、豪奢な衣装を引きずって華やかな宴会に明け暮れていた。だが、それを守る手段の欠如はなんだろう。貝殻のない貝のように、爪や牙のない獣のように。

 


「やはり私の見込んだ通りだよ…」
 仙蔵を抱き寄せてその髪に指を絡ませながら羽伝は語りかける。その口調は経済を語るときと同じような無機質なものだったが、わずかに熱っぽい情念を帯びている。
 -こう来たか、この変態が…。
 妖艶な笑みを浮かべつつ羽伝の杯に酒を満たす仙蔵が内心で毒づく。
 仙蔵を迎えに来た駕籠が向かったのは羽伝の屋敷だった。今頃、羽伝に眼を掛けられているという朋輩が嫉妬に狂っていることだろうと思いながら、仙蔵はなおも情報を引き出そうと試みていた。
「まさか羽伝様がこんなことをなさるとは思いませんでした…」
 すいと顔をそむけて呟く仙蔵の顎を羽伝の細い指が捉えて向き直させる。
「君ほどの上玉を忍たまにしておくのはいかにももったいないね。資源は有効活用しなければならないんだよ。私のモットーだ…」
 言いながら手にした杯を仙蔵の口許に寄せる。気を持たせるように口を閉じたままわずかに顔を傾けていた仙蔵が、なおも唇に寄せられる杯に観念したように小さく口を開けて杯の中身を受け入れる。
「こうやっていかにも隙をこじ開けさせるのが君のやり方なのかね」
 杯の残りを飲み干した羽伝が頬を寄せながら低い声で囁く。
「そのような手管までは、忍術学園でも学びません…」
 思ったより観察力が鋭いと思いながら仙蔵はあるかなきかに呟く。
「であれば、ますます私の見込んだ通りだ」
 満足げに頷く羽伝の手にした杯に、すかさず仙蔵が酒を満たす。
「でも、いずれ飽きておしまいになるのでしょう…」
「それは君次第だがね」
 ニヤリと唇をゆがめると羽伝は続ける。「だが、経済に関心を持つ忍たまというのは実に珍しい。そもそも経済などというものを考えたことすらない者が多すぎるからね…それで、経済のことは理解できたかね」
「私にはあまりに高度なお話でした…」
「そこまで稚児モードにならなくてもいいのだがね」
 仙蔵としては正直なところを口にしたつもりだったが、羽伝はそれもキャラ作りと捉えたようである。「まあついでだから面白いことを教えてやろう。銭が足りないことが大きな問題だと言ったね」
 言いながら、杯を指先から滑らせた手が背に回り、腰、尻へと下がっていく。「だが、実はそんなことはとっくに解決策があるのだよ」
「かいけつ…さく?」
 いかにも喘ぎを堪えるようなくぐもった声で仙蔵は訊く。
「なんだと思う? …銀さ」
 -銀?
 とっさにどういうことか理解できなかった。
「…石見では銀がいくらでもとれる。今は博多の連中が唐や南蛮に売りまくっているが、つまりそれはそれだけの価値があるということだ。大口の決済に銀を使うことはハツタケでは前々からやっている。南蛮の武器の取引にも有利なレートとなるからね。これほど便利なものだというのに、今や国中でコメがメインになりつつある。大いなる退化だね」
「なぜ…コメに…?」
 前に回りつつある羽伝の手をかすかに腰をひねって避けながら、うっすらとうるんだ流し目を送る。
「われらが帝のご先祖様が天から下ってきたころには、コメとは大事な食料であると同時に価値ある取引媒体だったということだよ。それから世の中が進んで銭や為替が発達したというのに、銭は足りなくなって為替は信用力が落ちて、経済はコメ本位制に退化しつつあるということだよ。我々を除いてね」
「それも…戦の世だからなのですね…」
 しつこく前をまさぐろうとする手に杯を持たせて酒を注ぎながら、羽伝の身体にしだれかかる。
「そのとおりだ。分かっているじゃないかね…これでもう少し身体も素直であればいうことないのだが」
 一旦は矛を収めた羽伝が杯を口につける。
「欲深な方でいらっしゃいます…」
「経済発展のマインドに最も必要なのはなんだと思うかね…グリード、つまり欲深なことなのだよ」
 仙蔵の神に顔を埋めながら羽伝は言う。「だから私も、欲するものはすべて手に入れてきた」
「でも、少しずつ召し上がれば、満足は長引くというものです」
 髪に絡めたままの指をゆるゆるとほぐした仙蔵はなめやかに立ち上がる。
「なるほどな…それも一興だ」
 続いて立ち上がった羽伝が肩を抱きながら駕籠の待つ式台まで歩み沿う。「明日まで時間をやろう…せいぜい身体を磨き上げておくことだ」
「仰せの通りに…」
 妖艶な流し目で微笑むと、ついと腰を落として肩に絡む指から離れて駕籠に乗り込む仙蔵だった。
 -明日、か…。
 寄り合いの結果はすでに羽伝には伝えてあった。だが、その反応は「負け組と年寄りの遠吠えだな」の一言だった。
 -まあ、抜け目のない羽伝のことだから、裏ではしっかり手を回していることもありうるが。
 そして思うのだった。もしあの一場を文次郎が見ていたら、何と思うだろうか、と。

 


「仙蔵、起きろ!」
 世闇の中、上から響く声に仙蔵はがばと飛び起きた。
「なにごとだ」
 それは小平太の声だった。きっと天井板を外して顔を覗かせているのだろうと思いながら布団の下に隠していた忍び刀を手にして立ち上がる。
 羽伝の手下の眼が光っていたから、仙蔵はそのまま置屋に戻って自室で眠りについていた。何があってもいいように忍装束で床に就いていたが、さっそく緊急事態が出来したようである。
 暗闇に眼が慣れると、天井のあたりからぎょろりとした目玉が光っているのが見えてきた。
「一揆が始まるぞ。いよいよ城下が戦場になる」
 つかまれ、と下された手に引かれて天井へと上がりながら「明後日ではないのか?」と訊きかけて慌てて口をつぐむ。小平太たちが追っていたのはアカタケだった。ということは、農村連合より一日早くアカタケが攻めてきたということか…。
「ハツタケ軍の動きはどうだ」
 小平太に続いて梁を伝いながら訊く。
「なんだかバタバタ動いてたが、あれじゃとうてい迎え撃つ状態じゃないな」
 -そうだろうな。
 やはり羽伝なりに対策は講じようとしていたらしい。だが、それより早く別の動きが始まってしまったということだ。
「長次はどうした」
「街外れで待ってる。もうここには用はないからな」
「そうだろうな」
 仙蔵が低く応えたとき、ふと遠くからばらばらと火縄の音が聞こえるとともに鬨の声が響いた。
「もう来やがったか」
 天井裏を抜けて屋根に上がった小平太が額に掌を当てる。街外れが赤く染まっていた。
「ふむ…だが、ハツタケは十分な動きはできないだろうな」
 吹き渡る夜風に舞う髪を払いながら仙蔵は呟く。
「ん? どーゆーことだ?」
「ハツタケ軍が動いていたのは、明後日の一揆に備えたものだ。これから来るアカタケの動きには到底持ちこたえられまい」
「そっか…じゃ、とっとと帰ろうぜ!」
 元気にって先に立とうとした小平太の肩を「違うだろ」と仙蔵が捉える。
「なんだよ」
 不服そうに小平太が振り返る。
「伊作たちに知らせなくてどうする! このままだと危ないぞ」
「あ、そっか」
 きょとんとした表情になった小平太がすぐに走り出す。「よし! イケイケドンドンで長次連れて伊作たちのとこ行くぞ!」

 

 

 -うわ! なにごと!?
 唐突に響く鬨の声に伊作が飛び起きる。慌てて襖をあけて外を見る。
 -どうして…一揆の計画がバレちゃったってこと?
 村は包囲されているようだった。あちこちで火が放たれ、炎に煌々と照らされた村内ではパニックに陥った村人たちがてんでに短甲に槍や刀を手にして走り回っていた。
 -まずいな…。
 なにがあるか分からないので夜着の下に忍び装束を着ていたから、すぐに動ける用意はあった。手早く枕もとの頭巾と覆面をして、布団の下に隠した忍刀を手に立ち上がる。だが、そこでふと思考が止まる。
 -どうしよう。すぐ逃げ出さないと…でも村の人たちは?
 一揆の企みが露呈した以上、村の人々の運命は決してしまっていた。運よく襲撃を生き延びたとしても、村を包囲した軍勢に捕まれば、もれなく残忍な処刑が待っているだろう。
 -それもこれも村の人たちが悪いんじゃない、代官の、ハツタケを治める人たちの政策のせいなのに…!
「頭領殿!」
 ばたばたと廊下を駆けながら叫ぶ声が聞こえて伊作ははっとした。
 -すまない…でも、ここで一緒に死ぬわけにはいかないんだ…。
 心の中で謝ってから天井に飛び上がる。天井板を戻した瞬間、障子が開かれて幹部たちが駆け込んできた。
「いないぞ!」
「なんと!」
 そこには空の布団があるきりだった。
「厠か?」
「まさか逃げ出したのでは…?」
 思わぬ事態に立ちすくむばかりの老人たちを背にすばやく天井裏を伝って逃げ去る伊作だった。

 


「あれ? なんか変だ…」
 代官館の石垣の影の暗がりに身を潜めた伊作は思わず呟く。
 村の中は、周囲で始まった戦にパニック状態だった。だが、ハツタケ軍が一揆を鎮圧するなら作戦本部になっているべき代官館もまたパニックに陥っていた。寝起きのままの裸同然の足軽たちが槍や刀をやたら振り回しながら走り回り、侍たちに率いられた女たちの一群が慌ただしく衣を被いて裏門へ向かい、長櫃をいくつも積んだ荷車が運び出されていく。と、館の一角から火の手があがる。足軽たちの叫び声と女たちの悲鳴がさらに高まる。
 -これは、ハツタケが一揆をつぶしに来たんじゃないのかも。だとすればどういうことだろう…?
 まずは留三郎と合流しなくては、と考える。
 -だけど、こんな状況だと会えないかも知れないかな…。
 であれば、まっすぐ学園に帰った方がいいかもしれないと思いなおし、暗がりを伝いながら村からの脱出を図る。
「げほ、げほっ」
 覆面の隙間から入り込んだ煙に思わず咳き込む。慌てて覆面をしめなおす。すでに村の多くの建物が炎上して昼間かと思うほど明るくなっていた。そんな中に戦からはぐれたらしい足軽や自然発生的に生まれた盗賊たちが走り抜ける。
 -どこの軍なんだろう。村の外では戦が激しくなってるみたいだけど…。
 燃え上がる炎に照らされた戦の様子を木立に潜んで探ろうとしたとき、
「おや伊作君」
 気配なく唐突に現れた偉丈夫だった。
「その声は…雑渡さん!?」
 激しく揺れる炎に横顔を照らされて包帯の間からのぞく隻眼が光る。その視線に驚きと当惑が混ざっていることに伊作は気付かない。
「こんなところで会うとはね」
「はい…ということは、タソガレドキが…でもどうして一揆を…?」
 状況がまったく理解できない伊作がつぶやく。昆奈門が眉を上げる。
「一揆だと? まあいい。ここは危険だ。西側の神社があるあたりから逃げ出すのだな」
 言い捨てて立ち去ろうとした昆奈門を「雑渡さん!」と慌てて呼び止める。
「…」
 作戦行動で忙しいのだが、という言葉を呑み込んで昆奈門は振り返る。
「ということは、この戦はタソガレドキが攻め込んだということなんですね?」
「…」
 黙ったままついと背を向けて昆奈門は立ち去る。
 -そういうことか。
 否定しなかったということはそういうことなのだろう。思えばタソガレドキに限らず、どこの城が手を出してきてもおかしくなかった。ひときわ繁栄しているうえに商品物流を押さえ、武器の生産まで行っているのに軍備はすっかり骨抜きになっているのだ。
 -雑渡さんも一揆のことは知らないようだった。もし知っていたら、一揆相手にハツタケ軍の戦力が弱ったころを見計らって余裕で進軍してくるところだったんだろうな…。

 


 村を包む業火に照らされた街道は、村から逃げ出してきた人々や、騒ぎを見物したり、なにやら盗み出せるものがあるかも知れないと村へと押し寄せる人々でごった返している。そんな様子を街道脇の木立に紛れて見つめる数人の青年たちの影があった。と、
「伊作!」
 影のひとつが唐突に叫びながら人込みへと駆け込んでいく。
「留三郎!?」
 人ごみの中から唐突に現れた留三郎にがっしと肩を掴まれて、常の姿に身を変えていささか憔悴した表情でとぼとぼ歩いていた伊作が驚きで眼を見開く。
「心配してたんだぞ! とにかくこっち来い! みんな待ってるぜ!」
「みんなってことは…文次郎! 小平太たちも…!」
 街道の雑踏から引っ張り出された伊作が、暗がりに佇む影を認めて声を弾ませる。
「よお、待ってたんだぜ」
「無事でなによりだったな」
「お前のことが一番心配だったからな! 伊作!」
(ケガはないか。)
 仲間たちが声を掛けながら伊作を囲む。
「うん! それより…」
 明るく応えた伊作だったが、不意に視線を落とす。「雑渡さんに会ったんだ」
「そうだろうな。この騒ぎはかなり偶発的だったからな」
 まずは学園に戻るぞ、と皆を促した文次郎が口を開く。
「偶発的?」
 伊作が眼を丸くする。
「そうだ」
 仙蔵が引き取る。「タソガレドキは一揆とは関係なくハツタケへの侵攻計画を立てていて、実行に移した。だが、たまたま今夜、アカタケの一揆も起こったのだ。アカタケは城下をはじめいくつかの村の代官館を同時に襲撃する計画だったらしい」
「で、タソガレドキとアカタケがたまたま村の外れで衝突しちまったってことだ」
 留三郎が口を開く。「どっちも真っ暗で戦えないもんだから明かり代わりに村に放火しやがって…ったくひでえもんだぜ」
「…そう」
 空虚とも安堵ともつかないため息をついた伊作だった。

 

 

 


「ねえ、仙蔵」
「どうした」
 数日後、仙蔵の部屋を訪れた伊作がいた。「ちょうど良かった、伊作。ハツタケの経済の報告書を書き終えたところだ。目を通してくれないか」
「う、うん…経済のことはよく分からないけど…」
 戸惑ったように笑顔を浮かべた伊作だったが、ふと硬い表情になって仙蔵を見つめる。「ねえ、仙蔵。結局、ハツタケってなんだったんだろうね…」
「というと?」
 茫洋とした問いの意味を図りかねて仙蔵は訊く。
「実は、一揆を起こそうとした村で同い年の人に会ったんだ。六助君っていってた」
 その面差しを思い出しながら伊作は語る。「六助君は、一揆には反対だった。世の中は行き過ぎたり戻ったりしながら、少しずつ進んでいくものだって言っていた。あのときのハツタケは、きっと行き過ぎていて、でも一揆を起こすことによって違う方向に戻ってしまうのではないかと恐れていた。六助君は、昔のハツタケを知らないけど、ずっと憧れているようだった。田の神様を祭ったり、新年の年神様を迎えたりするような生活を求めているようだったんだ」
「たぶん、そんな生活を奪った張本人の話を私たちは聞いてきた」
 仙蔵が口を開く。「宇尾連羽伝という勘定奉行付きの家臣だった。戦で落ちた国力を超高速で取り戻すために、経済の力をつかう。その副作用は伊作が見てきたとおりだ。そして、軍事を疎かにして今また国が滅びた」
「どうしてそうなったんだろう…ハツタケは間違っていたってこと?」
「一部は正しくて、一部は間違っていたのだろう」
 考えながら仙蔵は応える。
「それが、進みすぎたり戻ったり、ということなのかな」
 力なく伊作が呟く。「そのたびに、こんな犠牲を払わないといけないのかな」
「…私にもわからない」
 仙蔵が文机の報告書から眼を上げて、窓の格子越しに広がる空を見つめる。「だが、それを含めて、進んでいくものであってほしいとは思うな」
「そう…なるかな。戦にならなくても変わっていける世の中に、いつかなるかな」
 床板に視線を落としたまま伊作は呟く。
「それは私にも分からない」
 正直に仙蔵は言う。「だが、人は考えることができる。そのために人は学んでいると私は思いたい。私が言えるのはそれだけだ」
「そうだよね」
 顔を上げた伊作が小さく笑う。「僕も、そうなればいいなって祈ることしかできないよね」
「そのために我々はハツタケの事例を学んだ。それを伝えていくことで、その教訓が生かされる。そうすれば、いつかもっとよい世の中になっていくのかもしれないな」
 仙蔵の眼は窓を見上げたままである。格子に区切られた蒼穹が、まぶしく映る。

<FIN>

 

 

← Return to Les années folles  

 

Page Top  ↑