Fait Accompli(2)

 

「カメ子ちゃん、来てるんだって?」
 放課後、教室掃除をしながらきり丸が声をかける。
「そう。もう、来るなりまっすぐ中在家先輩のところに行っちゃってさ」
 しんべヱがぼやく。実際は、最初に学園長の大川のもとに挨拶して福冨屋からの文を手渡し、しんべヱに顔を見せ、薬品の納品のために、保健室の新野に挨拶し、雑貨の納品のために、用具管理主任の吉野に挨拶して…とさまざまな用事をこなしてから図書室に向かったのだが。
「まあ、いいんじゃない? カメ子ちゃんは、中在家先輩が大好きなんだし」
 乱太郎がとりなすように言う。
「でもさ、中在家先輩とカメ子ちゃんって、どんな会話しているんだろう」
 きり丸が誰にともなく訊く。
「さあ…ていうか、中在家先輩は、基本、口をきかないし…」
「カメ子も、中在家先輩の顔を見ているだけで満足しているようだし…」
「…だよな」
 三人の頭の中では、むすっと口を引き結んで本を読む長次の横顔を、うっとりと見つめているカメ子という図しか思い浮かべることができなかった。


「お嬢様、そろそろ出立しませんと、堺への到着が遅くなりますが」
 襖の向こうから、奉公人の長が遠慮がちに声をかけてくる。
 ふぅ、とカメ子は嘆息する。まだ、長次は、本のチェックに勤しんでいる。
 -本のチェックが終わって納品書にサインがいただけたら、南蛮のお菓子をお勧めしようと思っていたのに…。
「分かりました」
 襖の向こうに声をかけてから、長次に向き直る。
「中在家さま。もうしわけありませんが、私はこれで失礼します。納品書はこちらに置いておきますので、確認されましたらサインして、福冨屋まで送ってください」
 長次は、振り向きもせず、本のチェックを続けている。
「では、失礼します」
 一礼したカメ子は、立ち上がりざま、何かにつまづいた。
「あっ」
 書架の脇に積み上げてあった本が、どさどさと崩れかかってくる。身体がこわばって動けなくなったカメ子は、思わず目を閉じる。


「…」
 気がつくと、自分の身体が宙に浮いているような気がして、カメ子はこわごわと目を開いた。
「…中在家さま…」
 カメ子の身体は、長次に抱き上げられていた。やがて、長次は片膝をつくと、そっとカメ子の身体を下ろした。
「あ…ありがとうございます…」
(…)
 戸惑い気味のカメ子に無言で答えると、長次はふたたび、本のチェックに戻っていった。
「失礼します」
 一礼して、図書室を出る。急ぎましょう、とせきたてられるように馬の背に乗ったカメ子は、学園を後にする。
 -なんて大きくて、暖かくて、やさしい手だったのでしょう…。
 馬の背に揺られながら、カメ子は顔を赤らめる。
「うれしそうですね、お嬢様」
 奉公人が声をかける。
「え…、そ、そうですか?」
「はい。先ほどからずっと、笑ってらっしゃる」
 -それはもちろん、中在家さまにお会いできたし、思いがけず助けていただいたし…。
「はい! お兄様のお元気そうなお顔も、見ることができましたから」
 口ではなぜか、取り繕うようなことを言ってしまう。それがなぜなのか、まだカメ子には分からない。だが、ひとつだけ、分かることがあった。
 -中在家さまは、私がいくらお慕いしても、分かっていただけない。
 自分はまだ5歳の子どもだから。自分が年頃になるまで待ってもらうことなど、望みようもないから。5歳とはいえ、兄のしんべヱより濃厚に福冨屋のリアリストの血が流れているカメ子には、長次の掌の感触を忘れられない身体と、冷静な状況判断を下す頭が同居している。


 図書室では、長次が、納品された本のチェックを続けていた。傍目には、動きも表情も変わらないように見えているが、心中はひどく惑乱していた。
 -なぜなのだ…。
 書架の脇に積み上げていた本につまづいたカメ子を、崩れかかる本から救うことは、造作もないことだった。だがなぜ、カメ子の小さな身体を乗せた掌は、その感触をこんなにもはっきりと記憶しているのか。
 -この手に、もっとも似合わないものを手にしてしまったからか…。
 その事実に、長次はひどく動転していた。
 5歳とはいえ、何人もの奉公人を従えて商談に訪れるような大商人の娘は、あらゆる意味で自分とはもっとも縁遠い種類の人間であるはずだった。


 -そういえば、南蛮の菓子を持ってきたとか言っていたな…。
 文机の側に置かれた風呂敷包みに、長次は眼をやる。
 -どんなものか、見てみるか。あとで、図書委員の後輩たちが帰ってきたら、皆で食べるとしよう。
 風呂敷包みを解く。と、木箱の上に文が載っている。
 -5歳児のくせに、文など入れて寄越すとは…。
 それとも、女の子というものは、そういうものなのだろうか。自分が5歳の頃は、まだ仮名を書くのが精一杯だったことを思い出しながら、文を開く。それは、カメ子の手紙ではなかった。


≪しんべヱ、元気でやっているか。
 手紙は、そんな書き出しだった。
 -これは、福冨屋さんがしんべヱに宛てた文だ。
 自分へ宛てた文ではない以上、そこから先は読むべきではない。そう理性が押しとどめようとしたが、好奇心が上回った。

≪近頃、カメ子が中在家君に夢中になっている。私も一度会ったことがあるが、口数の少ない人だった程度の印象しか残っていない。そこでしんべヱ、中在家君がどのような人か、パパに教えてほしい。ただし、このことはカメ子にも中在家君にも、決して知られないようにすること。忍者のタマゴなら、そのくらいはできるだろう?

(…)
 長次は文を箱の上に戻すと、元通りに風呂敷で包んだ。
 -しんべヱがどのような報告をするか、考えるまでもないことだ。
 しんべヱの自分への評価は、大方の世人と変わることはないだろう。そんな報告を受けた福冨屋が、何らかの手を打つことは明らかである。カメ子の自分への関心が、妙な方向に育ってしまう前に。
 -それでいい。


 どたどたどた…と廊下を足音が伝ってくる。
「しつれいします、しんべヱです」
 息を切らせながら、しんべヱが襖を開ける。
「中在家先輩! そのお菓子、もう開けちゃいましたか?」
(…)
 長次は首を横に振る。
「ああよかった。カメ子が、ぼくへのおみやげと中在家先輩へのおみやげを間違えて渡したもんだから、びっくりしちゃって…」
 ふにゃりと笑いながらしんべヱが入ってくる。
「こちらが、中在家先輩へのおみやげです。おじゃましましたあ…」
 なるほど、風呂敷の柄が違うほかは大きさも変わらない。混同するのも無理はなかった。

(…)
 長次はしんべヱが残していった風呂敷包みを見つめた。先ほどと変わらぬ位置に置かれた包みは、柄が変わっているだけだったが、そこには、文はない。文の入った包みは、今ごろ、廊下をどたどたと走るしんべヱの手にあるだろう。その文を目にしたしんべヱが、何らかの返事を実家に送り、それを読んだ父親が何かしらの行動を起こす。あるいは、しんべヱが包みを開いた時点で、いつもつるんでいる乱太郎やきり丸も文を目にして、一緒に行動するかもしれない…気がつくと、しんべヱの手から包みを取り戻そうと腰を浮かしかけている自分に気付いて、長次は愕然とする。
 -私は、何をしようとしているのだ…。
 何のために、そんな行動をしようとしているのか。 
 文机の前に座りなおすと、長次は深く息をついて、ふたたび筆を執った。包みの中身を確かめようという気も失せていた。

 

 

「パパったら、いまさらなにをいってるんだろ」
 部屋に戻って、長次から取り戻した風呂敷包みを解いたしんべヱは、箱の上にある文を読むと、首をかしげた。
「中在家先輩がどんなひとかなんて、カメ子がいくらでもしゃべってると思うんだけど」
「なーにぶつぶつ言ってるんだ、しんべヱ」
「そうだよ、なんかお手紙に書いてあったの?」
 部屋に戻ってきたきり丸と乱太郎が、文を手にしたままぶつぶつ独り言を言っているしんべヱに声をかける。
「うん。パパがね、中在家先輩がどんな人かをおしえてほしいって」
「は?」
 乱太郎が眼を丸くする。
「しんべヱのパパさん、中在家先輩のことしらなかったっけ?」
「しらねえはずねえだろ。会ったことあるはずだぜ?」
 きり丸が腕を組む。
「ぼくもそうおもう。なんでパパったらこんなこときいてくるんだろう」
「つまり、カメ子ちゃんが中在家先輩がすきだってことが問題なんじゃないの?」
 文に眼を通した乱太郎が指摘する。
「でも、なにをパパにいえばいいんだろう。中在家先輩がわらっているときは、じつはおこってるとか?」
「でなければ、ああみえてけっこう親切とかな」
 同じ図書委員会のきり丸は、長次のおかげで学費が一年間免除になったことを忘れていなかった。
「あ、それいいかも。カメ子ちゃんが好きになった人がどんな人かしりたいんだったら、いいことをかいておくのがいいに決まってるよね」
 乱太郎がおおきく頷く。
「よし、じゃ、中在家先輩のいいところをいっぱいかいておけよ、しんべヱ」
 きり丸も乗り気になったようである。
「うん! そうする!」


「ふむ…」
 数日後、しんべヱからの手紙に眼を通す福富屋の姿があった。
 -私の伝え方が悪かったのだろうか…。
 手紙は、おおよそ期待からはほど遠い内容だった。
 -中在家先輩はじょうひょうがとくいで、わらったようにみえるときはじつはおこっていて、でもとってもしんせつで…とは、どういうことなのだ?
 そんな情報から、カメ子の相手として-いずれは伴侶として-適切な相手かどうかをどう判断しろというのだろう。
 -だが、しんべヱがこう書いてくるという以上は、理由があるのだろう。
 つまり、しんべヱとしては、中在家長次と言う人物がカメ子の相手としてふさわしいと認めているということなのではないだろうか。
 -とすれば、それは尊重しなければならないということなのだろうか…。


「長次、おい長次、ちょっと待てよ」
 雨の中、どこまでも走り続ける大きな背中に、すでに息切れしている文次郎が荒い息を吐きながら声をかける。
「なははは! 長次もようやく私の自主トレに最後まで付き合う気になったようだな! いいことだ!」
 先頭を行く小平太が豪快に笑い声を上げる。ちらと振り返りざま、長次が自分と並ばんところまで追いついていると見るや、スピードアップして引き離しにかかる。いつに変わらず無表情のまま、長次もペースを上げる。
「畜生…なんなんだアイツら…」
 ついに脱落した文次郎が肩で息をしながらその場に座りこむ。たちまち小平太と長次の姿が降りしきる雨の中に消えていく。
 -畜生! 昨日、徹夜で帳簿計算さえしてなければ俺も追いつけたのに…!
 ついに地面に大の字になってぜいぜいと息を吐く。その身体を雨が打つ。仰向けになったままふと考える。
 -それにしても長次のヤツ、最近やけに自主トレに入れ込んでるな…。


 他人からよく思われようとか、評価されようとかいう考えは、とっくに振り捨ててきた。恐れられ、避けられても構わなかった。かつて、幼かった自分を苛めた村の悪童たちを、今の自分ならひとりひとり、骨が折れるまで腕をねじりあげることだって簡単なことである。だが、そんなことを望む気持ちは、心のどこを探してもなかった。
 忍として生きていくことは、究極的な孤独の中で生きていくことを強いられるという意味で、長次にはむしろ好都合な人生だった。結局のところ、忍であろうがなかろうが、人は孤独である。常に、周りと対峙しなければならない。そうであるならば、そもそも他人に依存することを強く戒める忍という世界は、人生でもっとも必要とされるものを与えてくれるということではないか。だからこそ、忍術学園に入学してからというもの、ひたすら自分に必要と思われる技能や知識の習得に沈潜していったのだ。教師たちからは協調性に欠けると指摘され、上級生たちから生意気と指弾され、仲間や下級生たちから不気味と敬遠されても、そのスタイルを変えることなどありえなかった。
 他人との関係を求めることは、底の開いた桶で水を汲むようなものである。長次はそう考える。いくら汲んでも、満たされることなど、ありえないのだ。
 -埒もないことだ。
 最近、どうも調子がおかしい。いや、いつからかは分かっていた。カメ子が図書室を訪れたあの日から始まったことだった。そして、今の自分が何にとらわれているかも分かっていた。だからこそ、いま必要なことは、余計な考えを振り払い、いつもの自分にもどることしかないと思われた。
 ばしゃっと水たまりに足を突っ込んで、長次は我に返る。いつもなら適当なところで切り上げる小平太たちとの自主トレにまだ付き合っているのも、とにかく肉体を限界まで酷使して、頭が余計なことを思い煩う余地をなくすためだった。


「なあ長次! 今日はどこまで走るんだ?」
(…。)
「そうか! もっと走りたいか! よーし、いけいけどんどーん!」
 全く疲れを感じていないように拳を宙に突き上げながらジャンプすると、小平太は猛然と走り出す。その背に引き離されないよう長次も足を速める。
 まだその手にはっきりと刻み込まれた小さな身体の感覚と、思いがけず心の中に棲みついてしまった柔らかい感情に、長次はどう対処すればいいか分からず持て余している。
 -もっと走れ! 頭の中が真っ白になって、余計な考えが洗い流されるまで!
 だが、その長次の努力は、学園に戻ったとたんにもろくも崩れ去ってしまったのである。


「中在家さま!」
 六年長屋の長次たちの部屋の前の廊下には、カメ子が端座していた。長次の姿を認めて弾んだ声を上げる。カメ子が眼にした長次は、雨に打たれて髷や制服からはしずくが滴っている。
「まあ、そんなにぬれておられては、風邪をひいてしまいますわ」
 立ち上がったカメ子が駆け寄ろうとする。
(こちらに来るな。風邪をひくぞ。)
 注意しようとしたときには、並んで歩いていた小平太がカメ子の身体を持ち上げていた。
「なははは! よく来たなあ、カメ子ちゃん!」
「ごぶさたしております、七松さま」
 身体を高々と持ち上げられても、平然としてにこやかに挨拶するカメ子だった。
(濡れた手でカメ子ちゃんに触るな。風邪をひく。)
 表情には現れないが、内心はらはらしながら声をかける。
「なーに、細かいことは気にするな! カメ子ちゃんだって喜んでるだろう!」
「七松さまはいつもお元気でいらっしゃいますね」
(小平太、いいかげんに…。)
「わかったわかった。長次、そうおこるな」
 口をとがらせた小平太が、カメ子の身体をそっと縁側に戻す。
「中在家さま。七松さまのことをそんなにおこらないでくださいね。わたくし、ちょっとくらい濡れたってへいきですわ…それにしても、お2人こそそんなにびしょ濡れでは風邪をひいてしまいますわ」
「おお、そうだったそうだった…風呂に入ろうと思ってな。着替えを取りに来たのだ」
 ケロッとした顔で言うと、小平太はずかずかと廊下に上がって部屋に入る。

「ではわたくしは、ここで待たせてもらいますわ。ゆっくりあったまってきてくださいね」
「おお、そうするぞ!」
 わしわしとカメ子の頭を撫でた小平太が、着替えを脇に抱えて風呂場に向かう。あえてカメ子に顔を向けずに長次も風呂場へと向かう。
 -今の私には、とても小平太のようにカメ子ちゃんを撫でることなどできない…。
 小平太の後ろを歩きながら長次は考える。カメ子の声を聴いただけで、内心の動揺が面に出てしまうのではないかと思うほど激しかった。ましてこの手で触れるようなことがあっては、自分に何が起こるか想像がつかない。そうなったときのあまりに無防備な自分に、長次は怖気をふるう。
 -これが、六年間、学園で学んだ果ての自分なのか…!
 自分を覆っていたはずの兜や鎧をすり抜けて心の奥底に棲みついたかよわく愛しい存在は、もはや自分の一部となっていた。それがいずれ自分に何をもたらすのか、それは図書室にある膨大な本を通じて得た知識を総動員しても見いだせない。結局自分が得てきた知識とは、このようなことの解決にはなんの役に立たないものだったのだろうか。これまで築き上げ、登ってきた足場が一気に瓦解して奈落に叩き落されたような感覚に襲われて、長次は頭を抱えそうになる。


「カメ子~、こんなところでなにしてるのさ」
「あ、お兄さま」
 長次たちの部屋の前に端座して、前栽に降りしきる雨を眺めていたカメ子に、どたどたとしんべヱが駆け寄る。
「お兄さまこそ、どうされたんですの?」
「うん、カメ子が来てるって聞いたから!」
「わたくし、中在家さまをお待ちしてましたの」
「そういえば、中在家先輩は?」
 しんべヱがきょろきょろと見回す。
「この雨の中をお出かけになっていましたので、いまはお風呂に入られていますわ」
「あ、そういえば、中在家先輩といえば…!」
 急に思いついたようにしんべヱが声を上げる。
「どうかなさいましたの?」
 カメ子がいぶかしげに訊く。
「何日か前に、パパから手紙が来たんだ」
「お父さまから?」
「そう。カメ子が大好きな中在家先輩ってどんな人かって」
 手紙にはカメ子や長次には知られないようにと書いてあったはずだが、すっかり忘れているしんべヱである。
「もちろん、ステキな方ってお返事してくださいましたよね、お兄さま」
「うん! そうしたよ!」
 それが福富屋にどのような影響を与えたかを考えることなく、しんべヱは大きく頷く。
「よかった」
 カメ子が安堵のため息をつく。カメ子は知らない。いままさに、福富屋のビジネス戦略にも、長次の掌に刻まれた記憶にも、自分が消し難い既成事実を残していることを。

 

 

<FIN>

 

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