Das Spiegelbild(2)

「どうだった」
「だめだ。とりつく島もない」
 教室に戻った八左ヱ門は、待っていた三郎に、手短にやりとりを説明した。
「ふ…む、つまり、雷蔵は、私に変装されたくないってことなのか…」
「ま、そういうことだな。だから、雷蔵の顔を使うのはあきらめろ。ついでに俺の顔も使うな。どーしても変装したいなら、兵助か勘右衛門にしてくれ」
 自分の顔をして落ち込んでいる三郎の相手をするのは、いろいろな意味で鬱陶しいと思った八左ヱ門は、教室を出る。

 


「へー、そんなことがあったんだ」
「道理で、三郎が雷蔵の変装をしてなかったわけだ」
 八左ヱ門が向かったのは、隣の五年い組の教室だった。ことのあらましを聞いた久々知兵助と尾浜勘右衛門が目を丸くする。
「それで、俺たちに何をしろと?」
 兵助が首を傾げる。
「どうしろっていうか…なんかいい知恵ないかと思ってさ」
 困り果てていた八左ヱ門は、あっさりと本当のところを口にした。
「…と言われてもな」
 勘右衛門が腕を組む。
「やっぱ、だめか…」
 八左ヱ門が肩を落としたとき、
「あ、そうだ」
 兵助がぽんと手を打った。
「どうした」
「なにか思いついたか」
 八左ヱ門たちが顔を上げる。
「こういうときは、やっぱり先輩の力を借りたほうがいいんじゃないかと思うんだ」
「先輩の?」
「そう」
「というと…?」
 五年生の彼らにとって、先輩といえば六年生の面々しかいない。雷蔵の心のうちを聞けそうな六年生というと…。
「「あっ」」
 八左ヱ門たちは同時に声を上げた。
「だろ?」
 兵助がにやりとする。
「「図書委員長の中在家長次先輩!」」
「そういうこと」

 


「きり丸、字はもっとていねいに書かないと…、あ、怪士丸、分類番号はここの欄に書いて」
 図書室では、雷蔵が一年生たちに貸出カードの書き方を指導している。
「あ、あの…雷蔵先輩?」
 筆を止めた能勢久作が、遠慮がちに声をかける。
「なんだい、久作」
「その…中在家先輩が…」
「え?」 
 顔を上げた雷蔵は、ふと傍らに重苦しい空気を感じた。
 -え? 中在家先輩?
 いつの間にか、雷蔵の横に長次が立っていた。
(雷蔵、ちょっと)
「…はい」
 雷蔵を伴って図書室を出て行く長次に、後輩たちの視線が集まる。
「どうしたんだろう、中在家先輩」
 怪士丸がぽそっと言う。
「だな…特に機嫌が悪いわけでもなさそうだったけどな」
 きり丸が首をひねる。
「おい、お前たち! 図書室では私語禁止だぞ!」
 久作が几帳面さを発揮してすかさず注意する。

 


「どうかしましたか、先輩」
 長次が立ち止まったのは、グラウンドの端の木立の下だった。
(最近、五年ろ組の鉢屋三郎が、私の変装をしている…)
 長次がぼそりとつぶやく言葉に、雷蔵は身を固くした。
 -三郎、なんだって長次先輩の変装なんかするんだ…。
(三郎は、いつも雷蔵の変装をしていたはずだが、どうしたんだ)
「それは…」
 雷蔵は口ごもる。おどおどと長次に眼を向けるが、その顔は相変わらず無表情なままである。
「三郎は、なにか言っていましたか」
(いや。三郎に、言っておいてほしい。わざと下手な変装をするのはよせ、と)
 あえて言うほどだから、よほどへたくそな変装なのだろう。むしろ、三郎としては、変装するつもりすらないのかもしれない。
 それはなぜか。腕を組んで思案にふけりかけた雷蔵だったが、ふと目の前のオーラに気付く。
 いつもなら言うべきことを言ってしまうと、のっそりと立ち去るのだが、今日の長次は違った。雷蔵の前に立ったまま、雷蔵を見ている。
(…)
 長次の眼は相変わらず無表情だが、全身から放たれる威圧感には、もう慣れているはずの雷蔵もたじろぐ。
「あの…先輩、なにか…」
 かろうじてそれだけ口にすることができた雷蔵に、長次はもそもそと口を動かす。
(雷蔵は最近、書庫にこもってばかりいるな)
「は、はい。いろいろ調べたいことがあるので…」
(だが、書庫は寝る場所ではない)
「…はい、すいません。以後気をつけます」
 書庫にこもって、どうすればいいかを考えて、考え疲れてそのまま眠り込んでしまう夜がつづいていることも、長次にはばれてしまっているらしい。
(なぜ、書庫にこもっているんだ)
 新しい本を読みたくて…という返事を、雷蔵はあわてて飲み込んだ。
 -そんな言い訳が通じる相手じゃない…。
(長屋に戻らないわけでもあるのか)
 長次の問いが、徐々に核心にせまってくる。追い込まれたように視線を泳がせながら、雷蔵は答えを探しあぐねる。
(三郎と、なにかあったのか)
 ついに、長次の問いが核心を衝く。はじめから、長次には、三郎と何かあったことは分かっていたのだろう。

 


 -あのことを、言ってしまおうか…。
 迷いながら、ちらと長次の眼を見る。
(…)
 長次の視線が、ふとそれる。思わず視線を追ってしまう。その先には、グラウンド歩く人物の姿があった。
(三郎だ)
 言われなくてもすぐに分かった。それは、長次に変装した三郎だった。だが、遠目にもわかるほどの変装のひどさはどうだろう。頬の傷は付け忘れているし、眉は雷蔵のままだし、髷にいたっては誰のものかわからないシロモノである。
(あんな変装は、された方が迷惑だ。いったい、何があった)
「…」
 雷蔵は言葉に詰まった。同時に、もはや言い逃れできないところまで追い込まれていることも分かっていた。
 -あとは、どう切り出そうか…。
 それだけが、問題だった。

 


「先輩は、正夢を信じますか?」
 ためらいがちに、雷蔵は口を開く。
(正夢?)
「はい」
(正夢は、心の持ちようだ。願望や不安が強いと、夢に見ることがある。そして、常にそれを意識して行動する。ほんの小さなことでも、願望や不安に結びつけて解釈して正夢と言い立てる)
 長次の言葉はいちいち正論で、雷蔵には反論のしようもない。
「先輩のおっしゃるとおりだと思います。僕も、不安感に心が支配されているのかもしれません…でも、不安でたまらないんです」
(何がそんなに不安なのだ)
 正直なところ、長次には、いつも冷静な雷蔵の口からそのような不安感を告白されるとは思っていなかったので、ひどく意外に思った。
「…」
 両の拳を握り締めながら、雷蔵は、少しのあいだ、言葉を探した。
「最近、よく夢を見るのです。三郎が、僕の身代わりになって…」
 いつか感じた冷たい汗が背を伝うのを感じる。
 あばよ、と振り返りざまに微笑む三郎がちらと脳裏をよぎる。
 -覚めても胸のさわぐなりけり…。
 松千代の声が脳内にこだまする。
「…三郎はイタズラ好きで生意気で、でも、とても優しいやつなんです」
 頭を抱えてうずくまりそうになるのを辛うじて堪えながら、口を開く。
「いつも僕を守ってやる、と言います…どこまで本気か分かりませんが」
(…)
 きっと、三郎は本気なのだろう、と長次は感じた。雷蔵のような怜悧な少年が不安感を覚えるほどに。
(それは、夢の話だろう)
「でも、それが、不安なのです…いつか、僕の身代わりになってしまいそうで」
(そうか)
 長次には、雷蔵の不安の由来がようやく分かった気がした。
「…でも、僕には三郎が必要だから、僕を守ろうとして…」
 あとは言葉にならず、雷蔵はぎりと歯噛みした。

 


 実際、それはありえそうに思えた。だが、ここは、あえてきつく言う必要があるように思えた。
(忍とは、そんなに甘いものではない。卒業して、別の道に進めば、いずれ敵として戦うこともある。それが忍だ。五年生にもなって、そのようなことも分からないのか)
「分かっている…つもりでした。でも…」
(でも、なんだ)
「それでも、こわいのです」
(仮に、三郎が本気でおまえの身代わりになるつもりだとしたら、いま変装を禁止しても、いざというときにはおまえに変装するだろう)
「三郎に、変装を禁止するのは意味がないと?」
(そうだ)
「…」
 たしかに、長次の言うとおりだった。
「では、僕はどうすればいいのでしょうか」
 いつもなら、自分で考えろと切り捨ててしまう類の質問だった。だが、すがりつくような視線で見上げる雷蔵のまるい眼を見ていると、ともに答えを考える気になった。
(三郎がどう思っているかは知らない…)
 迷いながら、長次は言葉を探す。
(だが、いま雷蔵が三郎に変装を禁止することは、意味がない。それより、なぜ禁止しようと思ったのかを、きちんと説明してやれ)

 


 -きちんと説明する…?
 また考えあぐねた末に眠り込んでしまわないように、雷蔵は早足で学校の敷地内を歩き回る。
 -三郎に、僕の身代わりになる夢を見たから、こわくなって変装を禁止したんだ、なんて言える?
 言えるわけがない。たしかに三郎はいちばん隔てなく接することができる仲間だが、馬鹿正直になんでも言えばいいというわけでもないのだ。子供ではないのだから。
 -でも、このままだと、三郎を苦しめるままになってしまう…。
 すでに、三郎が自分の顔に変装することへのわだかまりはなかった。
 -そうか、そのことだけを伝えればいいんだ。
 足を止めた雷蔵は、深く頷いた。
 ひとこと言えばいいのだ。変装解禁、と。

 


「ホント!? 雷蔵に変装してもいいのかい!?」
 弾んだ声が響く。
「ああ」
 いろいろ悩んだ雷蔵だったが、ようやく三郎に変装解禁を告げることができたのは、久しぶりに長屋に戻った夜の、寝る直前のことだった。
「でも、どうして…?」
 飛び上がって喜んだ三郎だったが、次の瞬間、探るような視線で、雷蔵を見つめる。
「三郎が誰に変装しようが、僕にやめさせる権利なんてないと思ったから」
「そうか! じゃ、私は、私の好きなように変装させてもらうぜ!」
 たちまち、三郎は雷蔵の顔に変装する。
「ああ、やっぱり雷蔵の顔がいちばんなじむなぁ…」
 安堵したような声を上げると、三郎はごろりと布団に横たわった。
「なんか、今日はすっごくよく眠れそうだよ。雷蔵が戻ってきてくれたし、変装も許してくれたし」
「まるで、昨日まで眠れなかったようなことを言うんだね」
「あったりまえじゃないか。雷蔵はどこにいるんだろうとか、このまま変装させてくれなかったらどうしようとか、考えれば考えるほど眠れなくなってたんだぜ」
「そういえば、三郎は神経質なところもあるからね」
「そうさ。雷蔵みたいな大雑把とちがって、私は繊細なんだからさ」
「そうかなあ」
「当然だろ」
 いつものような他愛のない会話が、ひどくなつかしく感じた。涙で声がにごりそうになって、雷蔵は、顔を伏せて黙りこんだ。
「…どうしたんだ、雷蔵」
「いや、なんでもない。そろそろ寝ようか」
「そうだな。おやすみ」
「おやすみ」
 灯台の灯を吹き消すと、三郎はすぐに寝息を立て始めた。

 


 -ねぇ、三郎。君は、僕を守ってくれるというけど、僕は、そのために身代わりになるような友情だったら、いらないよ。
 月明かりが照らす三郎の寝顔を見つめながら、雷蔵は胸の中で語りかける。
 -三郎は、ずっとずっと、僕の一歩先を歩いていてほしいから。
「私の顔に、なにかついてる?」
 眠っていたと思った三郎が、不意に眼をパッチリと開いたので、雷蔵は一瞬、たじろいだ。
「いや…三郎はいつも寝つきがいいなと思ってたから。でも、狸寝入りだったんだね」
「んなことないさ。今日は、雷蔵がじろじろ見てたから、気になっただけだよ」
「ごめん、寝るのじゃまして」
「いいさ。それより、早く寝ようぜ」
 寝返りを打つと、三郎は今度こそ寝息を立て始めた。自分に背を向けた寝姿に眼をやって、小さくため息をつくと、雷蔵も身体を横たえた。

 

 

 -君は、鏡に映ったように僕そっくりになれるけど、でも僕にとってはいろいろと遠い君なんだね。

 

<FIN>

 

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