善法寺家のこと

善法律寺
善法律寺

中世史の本を読んでいると、時折善法寺の名前にぶつかるのが気になっていた。たとえば遣明船の一隻の共同出資者に名前を連ねていたり、宇佐八幡宮の周辺の荘園主となっていたり。これはなんだろうと調べていると、石清水八幡宮にたどり着いた。

 

中世の石清水八幡宮は、淀川の水運を扼する地にあって、特に室町幕府の将軍たちの崇敬が深かった。だから、朝廷が叡山の山法師に手を焼きながらも有効な手が打てなかったのと同じように、石清水の神人たちの強訴には、室町幕府はお手上げだった。将軍家の崇敬篤かったゆえに、石清水は不入特権、ひとつの治外法権をもっていた。

 

で、その石清水八幡宮に仕える祠官、つまりもっとも高い地位にいたのが、善法寺、田中、新善法寺などの家だった。これらの家は門跡を名乗り、石清水の検校、つまり八幡宮の事務の監督職を交代に出していたほか、石清水領内の訴訟などを検断し、将軍や諸大名と外交交渉をこなし、将軍家に嫁いで将軍の外戚になったりとかなりの政治的な力を持っていたらしい。

境内のモミジ
境内のモミジ

京阪電車の八幡市駅で降りる。駅を出て右に向かうと、男山を登るケーブルカーの駅があるが、駅前のロータリーをまっすぐ進む。男山を右手に望みながら、古い町並みが残る狭い道を歩く。と、左側に八幡市立図書館がある。ちょっと調査のために、2階の郷土資料の棚を見てみる。

 

八幡信仰は、九州の宇佐八幡宮に始まるようだが、8世紀か9世紀にこの地に勧請されてきて、以来、(おそらく宗教的に)都の西方を護っていたらしい。善法寺家が石清水の祠官になったのは鎌倉時代からのようだが、明治時代の神仏分離や廃仏毀釈で、現在は石清水の祠官家の権勢をしのぶものはほとんど残されていない。たとえば、いまでも善法寺家の名を残すものは、鎌倉時代に建立された善法律寺くらいしかない。図書館の階段の壁には、江戸時代の石清水の大きな地図がかかっていたが、善法律寺のさらに先に、善法寺と書いてある大きな境内が記されていた。

 

図書館を出て、まずは善法律寺に向かう。道路と山に挟まれた狭いところにある寺だが、門内にはモミジが新緑に照り輝いている。秋にはさぞ美しいだろう。この寺はかつての石清水別当だった善法寺家の当主が、私邸を寄進して寺としたものだと案内板に書いてある。

ゴミ袋がぶら下がっている後ろに見える石碑に、善法寺家舊邸跡とある
ゴミ袋がぶら下がっている後ろに見える石碑に、善法寺家舊邸跡とある

さて、善法律寺を出てさらに歩く。図書館で見た善法寺のよすがを求めることができないかと思ったのだが、観光案内等にはなにひとつ情報がないので、さて見つかるかと思う。

 

と、ふと道路沿いの駐車場のフェンスの向こうに、善法寺家舊邸(舊は旧の旧字体)とある石碑を見つけた。なんと、石清水の祠官として鎌倉時代から権勢を誇った善法寺家の邸跡は、いまは駐車場やゴミ置き場となっていて、かつてはどのくらいの広さがあったのかも判然しないほどになっていた。権勢も久しからず、ただ春の風が吹き抜けるだけの街外れに突っ立って、私はむなしく石碑を見ていた。