高校って…(駄文、長文注意)

 ここしばらく、いろいろな高校を訪問する機会が多かった。

 

 このブログでは図書館のことばかり書いていたが、主目的は高校の現状をまるっと見てくることであり、聞いてくることである。

 

 訪問したのが主に中堅校からいわゆる課題集中校(教育困難校ともいうらしい)だったせいもあるのだろうが、私の経験したちょい昔の高校時代がえらく牧歌的に思えるほど、いろいろな問題を見せつけられた経験だった。いわく、学力低下、経済格差、中退者の増加、問題行動などなど。

 

 学力低下は、ゆとり教育なる国策の被害者である一面もあるのだろう。あるいはLDやADHDなどの発達障害が原因となっているのかもしれない。経済格差については言わずもがなで、民主党政権は高校教育の無償化といっていて、今日のニュースでは所得制限をどうするかでもめているようだが、授業料を(あるいは義務教育と同様、教科書代も)無償化するだけでは、問題は半分も解決しない。

 

 だが、それよりも空恐ろしかったのは、経済的貧困、思考的貧困の再生産が現実のものとなっていることである。あまり書きたくはないが、学歴や経済力の格差は、比例しているようである。なぜ中退するのか、中退した後、どうするのか、何の展望もなく(少なくとも教員たちには告げず)学校を去る生徒たちがどうなるかは、保護者たちを見ればだいたい想像がつく、と教員たちはいう。

 

 こういう私の考え方は、学校を出たら企業に就職して…という思考に捉われすぎている、と知人たちに言われたことがある。今は、起業なり何なり、もっと選択肢が広い社会なのだ、と。だが、私が見聞きしたのは、全く違うステージの出来事だと思うのだ。むしろ学校を去る生徒たちが、やりたいことがあり、それは学校にいたのでは達成できないという理由で去るならば、あえてとめる必要もないのかもしれない。あるいはどうしても学校になじめず、通うことが苦痛なので別の途にトライするというなら、首に縄つけてまで学校にとどめさせるべきではないと思う。しかし、学校にも社会にも居場所を見つけられずに去っていく生徒たちがどうなるのか、彼らはその結果についていくばくかの想像力を働かせたことがあるのか、私はものすごく不安なのである。

 

 福祉や医療、労働などの分野には、社会のいろいろ矛盾が先鋭的に噴出しているが、まちがいなく教育も、そんな分野の一つであろう。